松代の旅W (川中島古戦場跡・善光寺) ○川中島古戦場跡 旧松代駅より10分ほどバスに乗り、川中島戦場跡に行く、道路を渡り広場に行くと、 古戦場だ、ここは千曲川と犀川(さいかわ)で挟まれた場所で、1553年から1564 年の12年間、越後の上杉謙信と武田信玄が5回も闘った場所だ。
1回から3回までは、お互い本気で闘わなかったが、4回目は、本気で闘ったという、 5回目は、お互いけん制しあって、対峙したが闘わなかったと言われている。
信玄(左)・謙信(右)一騎打ちの像
<4回目川中島の戦い> 川中島の闘いは、信玄が、信濃を含む所を侵攻したので、北信濃の 豪族が、謙信に助けを求めたのと、善光寺の経済的基盤の取り合い が原因だと言われている。
1561年お互いに雌雄を決めるために謙信と信玄は川中島で争った、 闘いにあたって。謙信は川中島の近くにある、妻女山に1万3千人 の兵を集めた。
それに対して信玄は、2万人の兵士を海津城(松代城)に集めた後 に、兵を2分割し、妻女山にいる、謙信の兵を挟み撃ちにしょう とした、本陣は、八幡原(川中島の中にある)へ8千人、妻女山 に1万2千人を向かわせた。
第4回川中島 合戦図 赤 上杉 青 武田 1万3千人 8千人
信玄の兵が妻女山に着いてみると、謙信の兵はいなかった、謙信は 信玄の動きを見越して、兵を移動し、信玄のいる八幡原に向かって、 対峙した。
ここでの陣形として、信玄は鶴翼の陣・謙信は車がかりの陣と言わ れている構えをしたと言われる。(詳細は各自調べてください)
ここ八幡原では、武田信玄と上杉謙信との闘いがあり、謙信が旗本 を連れて太刀で信玄に切りかかり、信玄が軍配で受け止めたと言わ れている。
ここでは勝負がつかなかったが、この時、信玄側の武将山本勘助・ 副将の武田信繁などが討たれた、全体を見ると、前半は、武田軍の方 が負けていたが、妻女山で遅れをとった別働隊が到着し形勢は逆転し 勝負は引き分けた。
だがこの闘い、両軍3万3千人のうち、死傷者が80%、内死者が7 千人もでて戦国でもまれな大激戦になった。
現在、この八幡原には、八幡神社とか、信玄・謙信の一騎打ちの像があり、人目を引 いている、又この周りには、長野県立博物館とか川中島古戦場跡の記念碑が多くあるが、 時間がないのでよく見られなかった。
八幡原 八幡神社 信玄・謙信一騎打ちの場
バスにて、長野駅に行く。
○善光寺 長野駅につき、善光寺行きのバスに乗り、善光寺の仁王門の近くで降り、本堂に向か う、修理中の仁王門を見ながら、仲見世の通りを行くと、そば屋などの店が両側に ならび、更に進むと右側に六地蔵があり、山門をくぐり本堂でお参りをした。
善光寺 山門(奥に本堂が見える)
<善光寺の本尊> 寺は1400年前に創建され、阿弥陀如来を祀って建立 した、仏さまは秘仏になっている。
その時、山門に登れる案内があり、山門の登り口に戻った。案内人の言うには、登 るのに階段の傾斜60度あるとの事、階段の手すりつかみ慎重にのぼった、山門の上 の回廊には仏さま飾られていた、撮影は、外側の景色は良いが、仏さま撮影は禁止 されていた。
回廊からの景観1
回廊からの景観2
回廊からの景観3 大勧進方向
山門の回廊から善光寺全体を見て、下に降りて、街中を長野駅まで歩いて帰り、 新幹線で東京へ戻った。
善光寺案内図
○おわりに 今回の旅は見所が沢山あった、一番良かったところは、静かで景色がよかった松代 城だ、その上、松代市の城下町を歩いて回ると、いたるところに、史跡とか武家 屋敷が残っていて時間がゆったり流れている。
その中で、特に印象的だったのは、長国寺の御霊屋・恩田木工の墓でした、説明し てくれた、坊さんも丁寧で分かりやすくて良かった。
2日目の川中島古戦場跡もあるが、善光寺で、2017年から登ることが許された、 山門に登ると、普段見られない景色が見え最高に良い旅行をした気分でした。
また、この旅行で色々道を教えてくれた地元の人の親切も旅の余韻として残った。
――――終わり――――――
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