松代の旅T (松代城) 201912

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○はじめに

  今回の旅のメインテーマは、甲州の武田信玄が越後の上杉謙信と戦うために、築城

した、松代城(旧 海津城)見学と、江戸時代、財政危機に陥った際、松代藩の

藩政立ち直しに成功した恩田木工(おんだ もく)の足跡を訪ねる事です。


 

また、サブテーマとして、松代大本営の地下壕(太平洋戦争中)の見学・川中島古

戦場跡・善光寺等テーマがあり盛りだくさんです。


 

○出発

 11月なのに日本列島に台風が、多くきて、特に台風19号により、旅先の千曲川

が決壊をし、車庫にある北陸新幹線の車両が、水没したニュースが入り、現地に

行けるかどうか心配をし、予約した宿泊先に確認をとり友人と二人で出発をした。


 

 東京駅より北陸新幹線に乗り長野駅に行く、長野駅よりバスに乗り松代(旧駅)に

向かう、松代は、以前は、長野電鉄屋代線(須坂〜松代〜屋代)が通っていたが、

2012年4月(平成24年)廃止された。


 

  廃駅の松代駅


 

廃駅は残されていて、近くに松代城があり、未だに松代市の中心ようだ、早速松代城

を見学に行った。


 

<松代藩の略歴>

  松代藩主の祖先は、真田信之で、父は昌幸、弟は幸村で、関ヶ原の役で

  昌幸・幸村父子は豊臣方につき、兄の信之は徳川方についた、どちらが勝つ

  ても真田家が残る選択でした。


 

敵味方に分かれた真田家は、関ヶ原の役で兄の信之の東軍が勝ち、

東軍で手柄をたて、西軍の父・弟の罪を勲功に変えても許して

もらえるように家康に申し出て、家康より許された。


 

昌幸・幸村父子は九度山に蟄居(ちっきょ)し昌幸が亡くなった後

弟幸村は再度豊臣家のために闘い、大阪夏の陣で破れて亡くなった。


 

その後信之は、上州沼田領(2万7千石)から95千石に加増され

信州松代に移封され、本人は長命で93歳まで長生きをした。


 

亡くなる際信之の遺金は37万両と莫大であったため、三代目の藩主

幸道は、幕府の命により公事で示遺金全部を使い切らされたと言う。


 

四代信弘・五代信安になると、財政が逼迫し幕府から1万両を借り

受けるまでの貧乏大名になった、六代藩主幸弘の代になると財政

再建に向かって倹約や治水事業など様々な改革を行った。


 

その後紆余曲折もあるが、松代藩は代々明治まで続き、現在は14

藩主が横浜にいるとの事です。


 

  松代城 正面入口


 

○松代城

 松代城は、旧松代駅の裏側にあり、石垣・門・堀・堤は、残っているが

 建物は残っていない。


 

城に入るのに、入口の案内もなく、まるで一般開放されている、どこかの公園

みたいで、入場料も無料です。


 

   松代城 南の櫓門


 

 入口は、広い堀の上に架けられた橋(太鼓門前橋)を渡り、太鼓門をくぐると、

橋詰門が見えてきて、そこに入ると視界が広がり、城全体が見える。

  城と堤の景観1

  城と堤の景観2


 

よく見ると、65歳位の女性がカメラを片手に持ち、城の周りの景色を撮っていた

ので、「良い撮影ポイントは、どこですか?」と聞いたところ、200メートルほど歩

いて、堤の上まで案内してくれました。


 

堤の上からの景色は、樹木が黄色く色づききれいでした、説明によると、台風の影響

を受けて、城の周りの低地には40センチメートルほど水がたまり引かなかったそう

です、撮影をしていた女性の親切さに頭が下がりました。


 

城全体を見ると、出入り口として、南の櫓門・北の櫓門がある、又景色としては、堀

・石垣・紅葉の樹木とのバランスが良くきれいだった。


 

  石垣と堀の景観


 

  北の櫓門


 

その後、5分ほど先にある、真田宝物殿・真田邸に行った。


 

 <松代城の補足説明>

松代城は、千曲川東方にある平城で、北信濃を支配するために、1560

年頃武田信玄が築いた海津城が前身です。ここは、千曲川によって形成

された、自然堤防に石造りの本丸を築いたといわれる。


 

                    ―――――続く――――