松代の旅T (松代城) 2019.12 ○はじめに 今回の旅のメインテーマは、甲州の武田信玄が越後の上杉謙信と戦うために、築城 した、松代城(旧 海津城)見学と、江戸時代、財政危機に陥った際、松代藩の 藩政立ち直しに成功した恩田木工(おんだ もく)の足跡を訪ねる事です。
また、サブテーマとして、松代大本営の地下壕(太平洋戦争中)の見学・川中島古 戦場跡・善光寺等テーマがあり盛りだくさんです。
○出発 11月なのに日本列島に台風が、多くきて、特に台風19号により、旅先の千曲川 が決壊をし、車庫にある北陸新幹線の車両が、水没したニュースが入り、現地に 行けるかどうか心配をし、予約した宿泊先に確認をとり友人と二人で出発をした。
東京駅より北陸新幹線に乗り長野駅に行く、長野駅よりバスに乗り松代(旧駅)に 向かう、松代は、以前は、長野電鉄屋代線(須坂〜松代〜屋代)が通っていたが、 2012年4月(平成24年)廃止された。
廃駅の松代駅
廃駅は残されていて、近くに松代城があり、未だに松代市の中心ようだ、早速松代城 を見学に行った。
<松代藩の略歴> 松代藩主の祖先は、真田信之で、父は昌幸、弟は幸村で、関ヶ原の役で 昌幸・幸村父子は豊臣方につき、兄の信之は徳川方についた、どちらが勝つ ても真田家が残る選択でした。
敵味方に分かれた真田家は、関ヶ原の役で兄の信之の東軍が勝ち、 東軍で手柄をたて、西軍の父・弟の罪を勲功に変えても許して もらえるように家康に申し出て、家康より許された。
昌幸・幸村父子は九度山に蟄居(ちっきょ)し昌幸が亡くなった後 弟幸村は再度豊臣家のために闘い、大阪夏の陣で破れて亡くなった。
その後信之は、上州沼田領(2万7千石)から9万5千石に加増され 信州松代に移封され、本人は長命で93歳まで長生きをした。
亡くなる際信之の遺金は37万両と莫大であったため、三代目の藩主 幸道は、幕府の命により公事で示遺金全部を使い切らされたと言う。
四代信弘・五代信安になると、財政が逼迫し幕府から1万両を借り 受けるまでの貧乏大名になった、六代藩主幸弘の代になると財政 再建に向かって倹約や治水事業など様々な改革を行った。
その後紆余曲折もあるが、松代藩は代々明治まで続き、現在は14代 藩主が横浜にいるとの事です。
松代城 正面入口
○松代城 松代城は、旧松代駅の裏側にあり、石垣・門・堀・堤は、残っているが 建物は残っていない。
城に入るのに、入口の案内もなく、まるで一般開放されている、どこかの公園 みたいで、入場料も無料です。
松代城 南の櫓門
入口は、広い堀の上に架けられた橋(太鼓門前橋)を渡り、太鼓門をくぐると、 橋詰門が見えてきて、そこに入ると視界が広がり、城全体が見える。
城と堤の景観1
城と堤の景観2
よく見ると、65歳位の女性がカメラを片手に持ち、城の周りの景色を撮っていた ので、「良い撮影ポイントは、どこですか?」と聞いたところ、200メートルほど歩 いて、堤の上まで案内してくれました。
堤の上からの景色は、樹木が黄色く色づききれいでした、説明によると、台風の影響 を受けて、城の周りの低地には40センチメートルほど水がたまり引かなかったそう です、撮影をしていた女性の親切さに頭が下がりました。
城全体を見ると、出入り口として、南の櫓門・北の櫓門がある、又景色としては、堀 ・石垣・紅葉の樹木とのバランスが良くきれいだった。
石垣と堀の景観
北の櫓門
その後、5分ほど先にある、真田宝物殿・真田邸に行った。
<松代城の補足説明> 松代城は、千曲川東方にある平城で、北信濃を支配するために、1560 年頃武田信玄が築いた海津城が前身です。ここは、千曲川によって形成 された、自然堤防に石造りの本丸を築いたといわれる。
―――――続く――――
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