函館の旅U (五稜郭・湯の川) 天笠富夫 ○ホテルから五稜郭 ホテルからバスで大沼公園駅まで移動し、函館本線で、新函館北斗駅を経由し、 函館駅にいく、昔は、青森からの連絡船の発着をしていたが、今は、駅も新しく なったが、賑わいなくなり、小さくなったみたいだ。
ここより、バスで五稜郭に移動する。五稜郭には、五稜郭タワーがあり、エレ ベータで90メートルまで登り上から下を見ると、五角形の星形城塞がある、
五稜郭タワー
城塞は、堀に囲まれ、石垣があり、堀の上に橋が架かっている、この城壁の中心に 函館奉行所見える。
五稜郭 復元模型
<五稜郭と函館奉行所の歴史> 函館奉行所は、日米和親条約(1854年に調印された)により、函館港が開港 された時、日本の北辺防備の拠点として、江戸幕府が、函館奉行所(函館山の麓) を造った。
タワーから五稜郭景観
だが函館山山麓では、港湾から近く、防備上不利であったことから内陸に移すこ とになり、外堀には、蘭学者の武田斐三郎(アヤサブロウ)がヨーロッパの城塞 都市を参考に西洋式土塁を考案した。
武田斐三郎の碑
タワーから函館山の景観
1864年(元治元年)に、現在の場所に、外堀となる五稜郭と共に函館奉行所が 完成した。
1868年(明治元年)戊辰戦争最後の戦いで、旧幕臣榎本武揚らが、開陽丸他幕府 の艦隊数隻率いて函館に入り、函館五稜郭を拠点として、官軍に抗戦したが、 明治2年(1969年)5月18日降伏した。
2年後の1871年(明治4年)函館奉行所は解体され、それから140年後平成22 年(2010年)に復元したという。(奉行として所存在していたのは、7年間)
○五稜郭の見学 タワーより下に降りると、五稜郭に影響があった、土方歳三の像と開陽丸のミニチュア があったのが気づいた、関連は次の通りでした。
大砲
<土方歳三> 1835(天保6年)武蔵 石田生まれ(京王線高幡不動の近く) 江戸幕府が京都の尊皇攘夷派志士にそなえて、浪士隊(新撰組)を 作った、その副長になった。
鳥羽・伏見で戦ったが敗れた。甲斐勝沼でも政府軍と戦ったが敗れて 関東・東北と転戦し、榎本武揚の一隊と合流し函館で戦死した。
<開陽丸> オランダより導入された幕府の軍艦で、最新鋭の主力艦として外国勢 力に対して抑止力となることに期待されたが、1968年(明治元年) 江差沖で暴風雨に遭い座礁沈没した。
五稜郭の碑
一の橋と二の橋を渡り城塞に入る、タワーの上から見ている五稜郭の景色と違い、 平面で、立体感がなく、石垣の凸凹がよく分からない、中に入りどんどん進むと 函館奉行所の建物の入口に出る、奉行所の外観は非常に立派だった。
五稜郭入り口(一の橋・二の橋)
奉行所の内部には、歴史とか資料・各種部屋があったが、城らしい生活感がなく、 あまり理解できなかった。
函館奉行所入口
函館奉行所 外観1
函館奉行所 外観2
ここよりホテルのある湯の川へバスで移動する。
○湯の川 湯の川は、函館で有名な温泉、非常に期待していたが、屋上に露天風呂があるが ビジネス街のように、ビルの谷間にあり、景観も悪くてガッカリした。
―――――続く―――
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