福井・金沢の旅U(一乗谷)       2020年4月 天笠

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 一乗谷 パンフレット

 

一乗谷城

 <歴史と説明>

日本海側に面した越前を支配した戦国大名朝倉氏の遺跡で、城と城下町

からなり、周辺の山峰は、城砦や見張り台が築かれていた、

 

  場所は、福井県 是羽郡にあり、朝倉氏7代から11代まで使用した、

朝倉孝景(7代)が1471年に越前守護(幕府が設置した地方官)になり

一乗谷に川に沿って築城した。

 

城は、南北5kmの谷全体が一つの城になっており、山頂には城があり

千畳敷(本丸)・二の丸・三の丸をはじめ、城山の斜面には防衛のため

空堀が造られている。

 

城下は、町を防衛のため、谷の狭くなっている所を利用して土塁で城門

を築き、上流の門を上城戸、下流の門を下城戸と言われている。

 

この城下町は、応仁の乱(1467〜1477年)の頃には、京から多くの

公家や高僧・文人・学者が避難をしてきて、華やかな京文化が開花した。

 

往時は1万人が暮らし「小京都」といわれ、京都につぐ都市という、その

後一世紀、北陸の雄として一乗谷は、栄えた。

 

京都周辺では、織田信長の勢力が伸びてきた、その勢力の伸張をはばもう

と、越前朝倉氏と近江浅井氏は、共に争い、1570年姉川で戦い1573

織田信長と戦って、浅井・朝倉両氏は、敗戦した。

 

一乗谷城は、信長によって、火を放たれ三日三晩燃え、建物という建物

は全部燃え、亡ぼされた。

 

越前の次の領主柴田勝家は、城を一乗谷でなく、水運・陸運に便利な北の庄

(福井)に移したため一乗谷は廃城になり、再興することなく、埋もれて農

村になったという、このため遺跡は400年以上も良好に保護されていた。

 

1966(昭和41年)の発掘調査で、一乗谷遺跡が再び着目され、現在、

特別史跡として扱われ、保存・発掘・整備が行われている。

 

  一乗谷 入口

 

 一乗谷の見学

  車は、右側と左側の山の間を流れている一乗谷川に沿って谷に入っていくと、入口

に、巨大石と土塁が目についた、下城戸だ、川を左手に奥に進むと、右手に、パン

フレットにのっている門が見える。

 

そこを過ぎると右側に一乗谷の復元された町並(復元町並と呼ばれている)が見え

てきて、駐車場により復元町並に入ることができる、

 

   <復元町並>

    発掘調査が行われ、埋もれた農地から、塀の石垣や、建物の礎石をその

まま使い、柱や建具とも出土した遺物に基づき復元し、武家屋敷から庶民

の町家まで町並を復元している。

 

 復元町並の通り

 武家屋敷跡

 

この復元町並の端より、道路に出て唐門の方向へいく、川を渡り唐門にいく、唐門

は朝倉氏か亡びた後、秀吉が寄進した門で、表側の紋所は、越前朝倉家の家紋「三

つ木瓜」で裏側には豊臣の紋がほられている、ここで一番人気のある遺跡です。

 一乗谷川

 唐門

 

一乗谷川にかかっている橋を渡り、唐門をくぐると朝倉館遺跡と庭園が広がって

いる、その近くに11代「朝倉義景の墓」があった。(後で調べてみると、墓は他に

もあり複数あるみたいだ)

 

 朝倉義景公 墓所

 

 朝倉館跡

 

一乗山城は、朝倉館遺跡から行ける山の上にあり。3コースあり、徒歩1時間弱か

かり、登りがきついと言われている、時間もないし大変そうなので諦めた。

 

  この後、車で、宿泊先のあわら温泉に案内してもらった。

                        ―――続く――――