○沖縄の歴史(バスガイドの説明+α)
首里城を見学にするにあたり、バスガイドは沖縄の歴史を話してくれた。まとめて
みると沖縄島民は比較的のどかに平和暮らしていたが、まわりがそれを許さず、
時代の流れに巻き込まれている、現在の日本姿と二重写しのように思える。
沖縄は1400年頃北山・中山・南山という三つの連合国に分かれ争っていた、
中山の尚巴志(ショウハシ)が北山と南山を征服し、浦添から那覇の近くの首里に
1407年頃遷都し琉球王国をつくった。(首里に移ったのは、近くにある那覇が
諸外国と交易をしていて裕福であったからと言われている)
その後琉球王国あらゆる武器を撤廃したりして、150年間は平和な幸せな国
であったが、1609年薩摩藩による琉球侵入により琉球王朝は薩摩藩の支配下
になった。以後300年以上薩摩藩は琉球王朝が得ている対中国貿易の利益を横取
りされ、1879年明治政府のもと沖縄県としての併合、太平洋戦争では最終局面の
戦場として多数の犠牲者を出し、太平洋戦争後アメリカの軍政下に譲り渡され、
1972年アメリカの基地をもったまま日本へ沖縄県として復帰した。
○首里城(世界遺産)
首里城の入り口に世界遺産に指定された園比屋武御獄(ソノヒヤンウキタ)の石門
がある、大きくもなく、奥行きもないただの石造りの門がある、何で世界遺産に指定
されたかわからない。(調べてみると、沖縄では祖霊<先祖の霊>を崇信する信仰
があり、その神がくる聖地を御獄と言って信仰の場として大切にしている。)
首里城に向かって歩いていくと、守礼の門がある。これは琉球王朝が中国の使者
を迎え入れる時に使用した門といわれている。名前は聞いたことがあるが、歴史の
重みがわからないので、あまり感激しなかった。またこの門は首里城が復元される
前までは沖縄観光の最大目玉であった。
さらに進み正殿が見える広場にきた。正殿は琉球王が使用し、正殿に向かって
右側の建物は薩摩藩の接待所として用いれられ、左側は王府の行政施設があった
ところで、中国の使者が来たとき歓待した場所である。だが中国の使者が来た時
薩摩藩と、どう調整していたのか疑問に思い後で調べてみたところ、薩摩藩は中国
に自分達の存在を徹底的に隠したそうだ、だから中国の使者がくると薩摩の役人は
すべて沖縄の田舎に隠れたという。多分中国は薩摩の存在を知っていたのでは、
ないかと思われる。
正殿は中国様式が強く影響をうけ王様は椅子席に座っていた、首里城全体をみる
と本土の城と違って、正殿に行く道もまっすぐで、城壁も低くあまり侵略される事を
考慮していない、城というより館の大きいもののように思われた。
○その他の観光
DFSギャラリア沖縄は免税をキヤチフレーズでブランド品を売っていたが、店の
規模も小さい上ブランド品に全然興味のない者の見学だから、すぐ飽きてしまった。
DFSギャラリア沖縄を見学後、那覇・国際通りを散策した、みやげもの屋・衣類
料品屋・食堂など道路に面してあり非常に賑やかである。国際通りの奥に公設市場
がある、道は非常に入り組んでいて、気ままに歩いていくと、どこを歩いているのか分から
なくなるほどだ、野菜果物の売場に並べてあるパパイヤ・マンゴ・パイナップル・ニガウリ
等を見ると炒め料理チャンプルを思い出す、肉屋にはブタの顔表情の肉などがおい
てある。帰りはためしに、沖縄唯一の電車モノレールで那覇空港に向かい帰った。
―――――――――――――――まとめ―――――――――――――――――――
沖縄に関して最初は、紀行文を書く気はなかったが、バスガイドさんの淡々とした説明
の中で、沖縄の歴史・沖縄の信仰などを知るにつれ、本土とあまりにも考え方も違う
その考えに深さを感じたので書いてみたくなりまとめた。
今度の観光では基地とか戦場跡だとかを見ていないが、沖縄で感じた事は、大きな
自然の中で時代の流れに常に圧迫され続けている島沖縄を見ていると、生活とは・
家族とは・国とは・平和とは等、考えさせられる問題がいろいろ見られた、忙しさに
かまけて忘れかけていた事を、未整理であるが、再認識させられた旅行であった。
最後に、この紀行文を沖縄出身のT氏に見せたら、沖縄の表面しか見ていないと言
われそうな気がするが、私の実力では沖縄は奥が深いため、このへんまで書くのが
精一杯のところだと思っています。
―――――おわり――――――