知覧の旅 18.08.20 天笠富夫
知覧は、鹿児島市・指宿市・枕崎市へほぼ35KMの距離にあり、有名なものに は、知覧茶・知覧特攻平和会館・知覧武家屋敷等があり、指宿から観光バスツアー で行った。
○知覧特攻平和会館 知覧の特攻平和会館に向かう、途中道路の両脇には、灯籠がずっと、長く飾られた 路を走っているのと、街の雰囲気が変わって特別な場所に行くように見え、少し緊 張してくる、会館に着く、建物は地味で何も無駄な物がなく、不気味さを感じた。
知覧特攻平和会館に続く道
会館には、第二次世界大戦末期の沖縄戦において、特攻という作戦で、爆薬を装備し た飛行機もろとも敵艦に体当たり攻撃をした、陸軍特別攻撃隊員の遺品や関係資料を 展示している。(会館内は撮影禁止で写真はない)
館中には、85歳位の老人が、特攻に行って亡くなった人の人数、乗った飛行機・そ の時の隊員の気持ち・遺言状などの話をしていた、亡くなった人数も多く・それぞれ の人の生き方を聞くと複雑で環境も整理できず、パニックになって頭に入らない。
館内の展示物には、攻撃に使用した飛行機・攻撃にいって亡くなった方の日付と名簿 とか・遺言状(手紙)などが展示されていた。
このように、太平洋戦争末期に特攻基地がおかれ、多くの若者が飛びたち、命を落 とした、最後の手紙には、家族の思いや感謝の気持ち、親孝行できなかつた後悔、 覚悟の思いがつづられていた、
知覧特攻平和会館 入り口
また、説明を聞いていて、強く、印象にのこったのは、特別攻撃隊員は、独身者だ けしかなれなかったらしい、そのために特攻隊の飛行機に乗るために、離婚した人 もいたみたいです。
見ていないのですが、基地内には、三角兵舎というものがあり、出撃直前の特別攻 撃隊員が寝泊まりした建物で、寝床以外は限られたスペースしかなく非常にシンプ ルだったそうです。出撃の朝、世話人が隊員の枕をみていいると、涙でぬれている こともあったと言う話です。
ともかく、私達の時代は、このような追い詰められた状態にならず、戦争もなく、 本当に幸せを実感しました。(何か、色んな事を考えさせられ、うまく表現ができ ません)その後、雨の中知覧武家屋敷に行く。
知覧特攻平和会館の外にある辞世の句碑
○知覧武家屋敷 徳川幕府の天下統一後、一国一城(一つの藩に一つ城しか認めない制度)を厳守させ た、そのため、薩摩藩では鶴丸城を内城として、領内113の外城(半農半士の武士の、 駐屯・居住場所)を造り、防衛の役割を果たすことにした。
その中の一つが知覧で、区割りは十八代知覧領主島津久峯公の時代に造られ、(今 から230年〜250年前のもの)、外城の形態がのこっている。
武家屋敷通り
見学に行った当日は雨が、降っていて水も濁っていたので、道沿いの小川に、鯉が遊 泳さしている姿は見えなかった、この武家屋敷通りには、10余りの庭園が あり、広範囲の風致区域として残っている。
武家屋敷通りの両側に石垣が続いていて、その上に建物がたっている、まるで、 江戸時代にタイムスリップしたように感じる。
この通りに面した二つ武家屋敷を見た、一つは庭が美しい所、もう一つは、門から 入るとすぐ戦闘用の石垣がある屋敷を見た、屋敷を詳しく見ると、それぞれ格式が あり、門構えも違うようです。
庭が美しい屋敷
門から入ると正面に石垣のある屋敷
まだ、他に、沢山の武家屋敷がありましたが、時間的制約があり、バスで、鹿児島 中央駅に戻った。
―――終わり―――
|