裏磐梯の旅 2013.09.22 天笠 富夫
裏磐梯の五色沼の近くに、猫魔ホテルという名のホテルがある、魔物を意識する ような変な名前だが、そこに泊まるバスツアーの予約をした。旅行会社の連絡による と、7月からホテル名が変わり「星野リゾート 裏磐梯ホテル」に変わるというが、 ともかく行って見る事にした。
<星野リゾート> 社長は、星野佳路と言い、以前NHKの番組「プロフェショナル」で ホテル再生人(赤字のホテルを黒字化する人)として取扱っていて、 名前だけは知っていた。
―――――――――――――――ホ テ ル ―――――――――――――――――― バスは新宿発である、途中野口英世の生まれた家(猪苗代湖の湖畔にある)近くのドラ イブインから裏磐梯にある五色沼の脇を通り、檜原湖の湖畔にあるホテルに直行する、 ホテルの外観は非常に立派であり申し分はないが、なぜこのホテルが倒産寸前までい き、ホテル再生人が必要になったのか、聞いてみると、福島原発の放射能の風評被害に より客が全く来なくなったそうです。 磐梯山とホテル ここは、原発からかなり離れているが、福島と聞いただけで来なくなる、ホテルに入 り、従業員をみると、若い人が多いにかかわらず、非常にテキパキと的確に対応する のには、見ていても気持ちが良い、室内もきれいだし、食事も価格の割に安くて良い。
檜原湖
その上夜になると、無料で従業員がこの地方に伝わる民話を話してくれたり、昔にあっ た歌声喫茶を開き歌詞を配り合唱していたりし、お客のサービスに勤めている、大きな ホテルの割に小回りがきいていて、リピーターになりそうだ。
――――――――――――――会津若松(鶴ヶ城)――――――――――――――――― 旅の2日目の天気は、夕方から雨らしい、最近の雨は降り始めると、すごい雨量で傘な んかさせるような状況ではない、早い時間に会津若松に行くために、旅館の1番早いシ ャトルバスで、JRの猪苗代駅に行く、駅ではPASMOが使えないので切符を購入し た、厚いボール紙のような切符で昔はこのようであり、切符の感触を久しぶりに味わった。
猪苗代駅からローカル列車に乗り緑の畑の中を通り、会津若松に着いた、今NHKの 大河ドラマ「八重の桜」で江戸末期の会津藩を取り上げていたが、今回の大河ドラマは なぜか最初から見ていない、「八重の桜」の舞台を見る事が目的ではなかった、旅行で何度 か会津に来たが、会津若松鶴ヶ城を外から見るだけで、一度も中を見たことがなかった。
会津若松駅から、市内の観光地を巡回しているバスの専用フリー乗車券(一日に何度も 乗り降り可能)を購入し鶴ヶ城に向かう。途中、市内に古い商店・寺なども多く、野口 英世青春広場等もあり時間があったらゆっくり見てまわりたかったが、雨が心配なため 見る場所を鶴ケ城だけに絞った。
鶴ケ城北口で降り、堀を越えお城に向かうと、管理事務所があり、城を案内するボラン ティアの人を紹介していた、会津の歴史は詳しくないので、70歳くらいのボランティ アの男の人に案内を依頼した。
まず、「八重の桜」で観光客が増えたのか聞いてみたら、テレビのストリー進展と共に お客が増えているとの事でした。
説明が始まると、鶴ヶ城の歴代の藩主の変遷を話してくれた、それをまとめる次のりです。 <歴代の藩主> ・葦名家(あしな) 1384〜1589 三浦半島の三浦氏の一族で、源頼朝から会津を与えられたという、 7代 直盛が東黒川館(鶴ヶ城の前身)を建てたといわれている。 ・伊達家 1589〜1590 伊達正宗が、20代葦名義広を破り、黒川館を改修した。 ・蒲生家(がもう) 1590〜1598 豊臣秀吉より、蒲生氏郷に会津を与えられる、氏郷は黒川城を改修し 七層の天守閣を造ったり、城下の町割りを造ったりし、城を鶴ヶ城と 命名した。氏郷が40歳で亡くなり、秀吉が氏郷の子秀行(13歳)を 任命したが、会津藩の政治は無理だとして、宇都宮へ移された。 ・上杉家 1598〜1601 上杉謙信の養子 上杉景勝が入ってきたが、徳川家康に刃向い、関ケ原の 戦いで西軍が敗れたので、上杉景勝は徳川家康に謝罪をして、会津は取 り上げられた。 ・蒲生家 1601〜1627 関ケ原の戦いで徳川方に味方した、蒲生秀行が会津に戻ってくる、 だが、秀行の跡取りが亡くなり、生家が途絶えてしまった。 出来事として、1611年に会津地方に地震があり、鶴ヶ城の石垣くずれ、 天守閣が傾いたという。 ・加藤家 1627〜1643 四国松山から会津に入ってきて、街道の整備や天守閣を7層から5層に 変えたが、凶作と大規模な工事が連続したので、農民が反発に治め ることができず、領地を幕府に返上した。 ・保科家(ほしな) 1643〜1868 松平家 2代将軍徳川秀忠の子保科正之が会津に入る、3代目の正容(まさか た)の時に松平姓になる、9代藩主容保(かたもり)は、京都守護職 になり、「新撰組」を支配下に置き、幕府側に尽くす。
ボランナティアの人の説明を受けてから、天守閣に登る、天守閣は戊辰戦争(新政府軍 と幕府軍の戦い)では、内部はボロボロになり、会津藩は降伏したが、城は取り残され ていたたが、明治7年に天守閣が取り壊されて、昭和40年に5層の天守閣が再建された、
この城に関わった人は伊達正宗・蒲生氏郷・豊臣秀吉・上杉景勝・徳川家康・松平主容保 (かたもり)など歴史上活躍した人がでてくるので、会津若松は、東北にあって重要な 拠点であったのを思い知らされる。
天守閣内部は、撮影禁止の箇所が多く、あったが、昭和に再建されたせいか、薄っ ぺら軽い感じがして、あまり感動をしない、かえって石垣とか堀を見ているほうが感動 するのは、なぜだろうか。
鶴ヶ城を見た後、空を見ると曇り始めたので、また雨が来なければ良いと思い、バスに 乗り行きと同じコースで急いでホテルに戻った。 ――――――――――――――――おわりに ―――――――――――――――――― 磐梯山は、昔は「磐梯山は、宝の山よ!小原庄助さん、朝寝・朝酒が大好きで、それシ ンショウつぶした」の歌で有名であったが、今回は一回も聞かないで、庄助さんの人形 も見あたらなかった、時代が変わってきたのかもしれない。
またホテルの近くにある五色沼や檜原湖は天候があまり良くなかったので、落ち着いて 見る事ができなかったし、 会津若松も、城下町として、史跡が多くあるわりに、何も 見てないので、機会があったら又来てみたい。
ホテルに関してしては、ホテルの名前、「猫魔」を調べてみると、近くにある猫魔ヶ岳 (昔、化け猫がいて人を食べた、との伝説がある)から名からとったように思われる、 他に名前の付け方があったのではないかと思った。
最後に、各地で、リゾートを再開発している星野グループが、「なぜうまく再生できる のだろう」と非常に興味が湧き、調べて追記にまとめてみた。 (NHKの番組からまとめた) ―――END ―――― 2013.07.28 <追記> 星野グループについて
社長 星野 佳路(けいじ)は、大学卒業後、アメリカに渡り、ホテル経営学を 学び、外資銀行に勤めていた、31歳の時軽井沢の自分の家の旅館を継ぐことになっ た、バブル崩壊後利益が減少、改革を急ぐために、アメリカ仕込みのトップダウンで 経営改革をやりはじめた、ベテラン社員が反発し次々辞め始め1/3が辞めていた。
何とかするために求人を出したが人が集まらず、どうすれば自分のもとで働いてくれる のか?あすの運営ができなくなる。経験をつんだ社員はもういないので、現場の若手に やらせるしかなかった。若手を責任者に抜擢し任せたら、暫くすると「どうしましょう か」の質問も少なくなった。
責任者が自分で考え自分で決める、ことまで任せると、やりがいを感じ他の社員と一緒 に新しい企画作りを始め実行したら急に人気が出始めた、
今までは、決まった事を現場に落とし実行させていた、現場はただやるだけであった が、現場主体にすると社員がやる気がでてきた。
その姿を見て星野は「任せれば、人は楽しみ、動きだす」との確信をえた。
それを原点に、つぎのようにした。 ○社員が主役で、決めるのは社長ではない、決めるのは社員である、ように仕組みを変 えた。(社員は楽しそうに仕事をする) ○社長はと全員を集めて社員にどうすればよいかと聞くだけで社員に考えてもらうにした。
このように、今でも、社員の話を聞き、任せて、全員の共感を得て、全国でリゾートを 再生する事業をしている。
だが任せるだけで、経営がうまく、いくわけではなく、星野社長の先見性を含めた指導 力がすごいと思った。
<追記終わり> |