仙台・南三陸町の旅 後編 24.08.22 天笠 富夫
―――――――――――――南三陸町市内――――――――――――――――――― 翌朝、南三陸町の市内をバスで案内してくれた、案内した人は30歳くらいの男性で地 震がくる少し前に「ホテル観洋」に就職した従業員です。
○南三陸町の概要 南三陸町は地震前は、人口17、600人 世帯数 5、362世帯であつたそうで すが、地震で全壊・半壊を含めると3、315世帯で被害を受け、いま他の場所への 流出を含め1割ぐらい人口が少なくなっている。
○南三陸町(志津川市)の景観 南三陸町の中心地 志津川市に案内してもらった、見渡す限り津波で家が流されコン クリートの家土台と、鉄骨で造られたビルは鉄骨のみ残され、頑丈に造られたビルは 外観は残っているが、ビルの中は津波で破壊され利用できない。
海岸から奥の杉林を見ると津波で海水を被り枯れ始めている。そして所々にガレキが 整理し山になり取り残されている、市の中心を流れている志津川は1メートルほど地 盤が沈下し満潮の時は川があふれそうになり、通学時など単独行動ができないといわ れている。
景観1 景観2
○防災棟庁舎(防災対策庁舎) 海岸から500メートル離れているところに、町役場があり、そこの中に、3階建て の12メートルの高さの防災棟庁舎が残っている、津波の時40人の職員が勤務して いた、この2階には、危機管理課の女性が「津波が来ます、高台に避難して下さい」 と放送をしていたが、本人は逃げないで、津波に巻き込まれ亡くなったそうです。 津波が来た時30人が屋上に避難しアンテナを掴んだりしたが、波が去った後10名 しか残っていなかった、それほど津波は大きく強力であった。
現状の防災棟庁舎 千羽づる等で飾られている 震災前後の比較 インターネットより
津波時の屋上の状態 インターネットより ○案内人の家族 市内を案内してくれた人は、地震のくる少し前に「ホテル観洋」に就職し、青森から 夫婦(子供3歳くらい)共々この南三陸市に引っ越してきて、まだ知り合いも少ない 時に地震にあった。
地震後、海岸線の道路も不通、通信も不通で連絡もとれず、ホテルでの仕事の後始末 もあり2日間ホテルから離れられず、3日目に山道を通り志津川市内に入り自分の住 んでいる場所に行ったら住居はガレキの山でなにもなかった、少し小高い丘に幼稚園 があり、そこに行ったのではないかと思い捜しに行ってみたが見つからず、避難して
いる人に聞いてまわっていると、幼稚園より更に高い所にある、中学校方にそれらし き親子が向かっていたと聞いて、中学校にかけつけ校長室で避難している人の中で見 つけたそうです。
本人は、その後生活用品は全部失ったが、仮設住宅に入り生活しているが、壁が薄く トイレの音・咳・いびき等隣りの音が聞こえてプライバシィがないと言っていました。
だが悪いことばかりでなく、結婚式の写真も無くなったと知ったので、ボランティア できた有名な写真家の人が、結婚式の写真を撮ってくれる事になり、当日家族でホテ ルに行ったら色んな人が集まり、再度結婚式を挙げられたと感激し喜んでいました。
旧商店街で店をやっている魚屋
○震災後の話し 震災後道路を確保するために、自衛隊がきてガレキの撤去作業をしたり、500人 ほどで水とおにぎりを持ってきたのは忘れられないそうです。
仮設住宅・仮設商店街・病院など山沿いに造られているが、産業が復興していないた め町全体に覇気がないが、中には昔の商店街で魚屋を開いた人もいる。
―――――――――――――おわりに――――――――――――――――――― 仙台は、大きく知らない見所も沢山あることが確認でき、名物の牛タンもおいしかった が南三陸町では、おいしいモノにぶっからなかった余裕がないのかも知れない、
また南三陸町は過疎化の上、この地震での人口の流出に悩んでいるみたいだ、近々鉄道 の気仙沼線は、BRT(高速バス)が導入され、不通箇所を代替えするようですので 気になる方は是非行かれると良いと思います。
今後、町の中心を何処に造るか、海岸沿いにすると津波が、恐ろしいし、町を山側にす ると港中心の町では不便だと問題を抱えている。
最後に、被災地のホテルで、言の葉墨彩画を見つけたので紹介します。
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