鹿教湯温泉の旅  2011.12.20  天笠 富夫

 

――――――――――――――――――はじめに―――――――――――――――――

 今回の旅は、2泊3日新宿よりバスに乗りスタートした。目的地は長野県の松本市と

上田市の中間にある温泉鹿教(かけ)湯温泉だ。

 

変わった名前なので、由来を調べてみた、昔、猟師が鹿を獲りに山深く入り、大きな鹿

をみつけ矢をいり当たったが鹿は山深く入ってしまった、猟師はあきらめずに何日も山

奥に来て鹿を捜すと、矢の当たったままの鹿が水浴びをしていたのを見つけた、男が鹿

の水浴びをしている場所に行くと、そこには、こんこんと温泉が湧いていた。

 

すると文殊菩薩が表れ「日頃信仰心の厚いそなたに答えて湯のありかを教えた、汝この

湯を広く知らしめよ」と告げたそうです、のちに村人たちは鹿が教えてくれた湯、鹿教

湯と言われるようになったという(開湯は1200年前)、現在では国民保養温泉地に指

定されている。

  <補足 文殊菩薩(もんじゅぼさつ)>

   「三人よれば文殊の知恵」と言われるように、世の根本を司る

    知恵を授けてくれる御仏(実在の人物といわれている)

 

―――――――――――――――1日目(鹿教湯温泉)――――――――――――――

午後2時頃鹿教湯温泉に着いた、旅館のフロントに行き、周辺の観光案内の地図をもら

いながら、散策する場所を聞いたところ、文殊堂のお寺を紹介された。さっそくお寺を

見にいくことにした、途中季節は秋まつさかり、木が黄色く色づいたり、柿が赤く実

ったりした姿を見ながら、みやげ物屋と旅館街の間を歩きながら行くと川に出た、

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 共同浴場を見ながら、川にかかっている橋(屋根付)を越えて行くとお寺があった、

このお寺には、行基が彫らせた文殊菩薩が安置されていると言われている、寺の案内人

が言うには「仏像は国宝級なのだが、長野県は国宝が多いため、県宝に留まっている。」

と話をしていた。

<補足 行基>

 聖武天皇の時代、奈良の大仏の建立の責任者

 

たしかに、お寺は非常に静かで、落ち着いており、山里にひっそりたたずんでいてすば

らしい景観の寺でした。

 

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――――――――――――2日目(上田城・上田市内)――――――――――――――

2日目は、旅館から上田市駅行きの送迎バスが出ていると言うので、午前10時の送迎

バスを利用して上田市内に行く事にした、上田は20年ほど前の暮れに別所温泉に行く

途中上田市内と上田城を見て、その年にとれた新蕎麦を食べた事を思い出す。

 

上田駅に着くと駅は立派になり長野新幹線も停まるようになっていた、反面昔のローカ

ル的な駅のほうに愛着があるのは、贅沢(ゼイタク)な話しであろうか、バスを降りて

上田城の方に向かった。

<補足 上田城の歴史>

上田城は、真田昌幸(幸村の父)が建築したもので、天正15年(1585年)

に一応完成された、有名な話しとして、慶長5年(1600年)7月に挙兵し

た、このとき真田家存続のため、昌幸の長男信之は徳川方(東軍)につき、

昌幸とその次男幸村は石田方(西軍)に分かれてついた。(どちらが勝っても

真田家は存続できるようにした)

 

後の天下分け目の戦い関ヶ原の戦いで、徳川方は二手に分かれ西上した、­本隊

は徳川秀忠3万8千人で中山道を、それ意外の者は東海道を進んだ、中山道

を進んだ本隊は、籠城して刃向かう上田城の真田に攻撃したが、城は落ちず

徳川方は多数の死傷者を出した、そこで徳川方は兵力の一部を残し西上した

が、9月15日の関ヶ原の戦いに間に合わなかった、但し関ヶ原の戦いは西軍

(石田方)が敗れ、東軍(徳川方)が勝った。

 

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城の入口は二の丸橋がかかっていて、橋の下は空堀になり、今は散策道になっている、

この城の本丸は残っていないが、櫓(やぐら)門は復元されて残っている。二の丸橋を

渡り先に行くと、水の入った堀にぶっかる、そこの橋の先に左に南櫓右に北櫓が見え、

真ん中に東虎口櫓門が見えてくる。東虎口櫓門を通り小高い丘の上にある南櫓と北櫓を

見た。

 

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 中は資料館になり、槍・刀・鎧など飾られていた、北櫓に中で印象的なのは、昌幸が長

男と次男と一緒に、東軍につくか西軍につくかの相談している絵が飾られていた、いつ

の時代でも間違った方向に進むと亡んでしまう事を象徴している。またこの場所は風が

強く「寒くないですか」とこの案内人に声をかけたところ、「寒くてここを開くのは11

月までです」と言っていた、

 

だから20年前の年末に来た時は中を見ていなかったのだと思い出した、この城は真田

氏が40年・仙石氏が85年・松平氏が116年明治4年の廃藩置県が行われるまで歴

代の城主がいたが、何故か真田氏の上田城としての印象が強い。

 

城を見た後上田市内を散策した、街自体は比較的活気がありシャツター通りもあまり見

られなかった。

 

街の中を歩いていると一軒のそば屋を見つけた、場所は上田駅から10分くらい離れた

ところ、別に事前に調べた訳ではないが、「刀屋」というそば店に午後1時頃はいる、 

お客は沢山いた1階は30席ぐらい、かろうじて座席で3人分の席がとれた、まわりの

客は背広姿の客が多い、しかも食べているものを見ると冷たいそばがほとんどだ、

注文する時にメニューを見るとモリ蕎麦・ザル蕎麦は、量により4種類に分かれていた、

 

とりあえずモリ蕎麦の普通盛りを頼んだ、注文した蕎麦がくる間店の中を観察した、お

客は、午後1時を過ぎているのにどんどん来る、しかも背広姿のビジネスマンが多い、

しかも2階も使っているみたいだ、店は家族経営6人ぐらいの女性で切り盛りしている、

 

ここの店の娘さんであろうか、20代の少しやせた女性がテキパキとお客の案内等の接

客している姿はすばらしく絵になるようだ、東京ではこんなに繁盛している店はない

食べるものがソバであるから回転が速く、食べ終わると各自サツサと店をでていく、

本当は店内の写真をとりたいくらいだった。

 

その娘さんらしい人が注文した普通盛りを持ってきた、みるとすごい量、東京のモリ蕎

麦の大盛りより1.5倍から2倍ある、店員は「お客さん食べられますか、よかったら

量を変えましょうか」と言われたが、いきかがりじょう、それで良いですと答えてし

まった、

 

後で量を聞くと、東京での普通が一人前250グラムであるが、ここでは大が1キログ

ラム・普通が600グラムだと言う、多分小が250グラム・中が400グラムではな

いかと推測される。

 

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ともかく頑張って食べた、食べた後外に出ると、外でお客が並んで待っていたのには

感した、後で調べてみたら有名な蕎麦屋で、小説家池波正太郎(故人)がよく通ってい

たという。

<補足 池波正太郎>

真田太平記の著者で、上田の市内に池波正太郎真田太平記館がある。

 

―――――――――――――――3日目(桜館)―――――――――――――――――

帰りの迎えのバスは、午後のため午前中に、この旅館の同一資本で、旅館から徒歩10

分くらい丘の上にある、湯治の湯「桜館」に行った、外観はあまりきれいでなかったが

入場料500円を払い中に入るとリニュアルされていて中はかなりきれいであり、風呂

に入ったり、碁盤・将棋盤もあり休憩できたりする、只ここに永くいると飽きそうな感

じがした。

 

ここの経営の流れに興味があったので調べてみた、ここは、元は簡保の宿でもっていた

のを買取ったみたい、泊まった旅館の資本系列を見てみると、泊まった旅館は、以前

は、東急がもっていたのを買収したみたいです、買収した会社は東京のお台場に日帰り

温泉を持ち、全国の比較的設備の良い、いきづまった旅館・ホテルを買収し、手間のか

からないように工夫し、従業員を少なくし、お客に対しては宿泊価格を低く抑えて商売

をしていた。経営がうまくいっているせいか、不思議といつも満員であった。

 

―――――――――――――――――おわりに――――――――――――――――――

今回の旅は、最初はあまり期待していなかつたが、行ってみて意外に良かった。史跡と

しては文殊堂・上田城等見応えがあった、また上田市内にあった蕎麦屋の活気・店員の

マニュアル的でない細かな対応そして働いている姿が良いのに感激した。

 

また泊まった旅館は、到着した時館内に利用するメモを付けて案内を細かく言うのでう

るさい所だと思っていたが、これは価格を安くするために、浴衣を自分で大きさ柄を自

分で選び取りに行ったり・フトンを入室する前に引いてあったり、朝食・夕食は手間の

かからないバイキング等、手間のかからないように工夫を見せてもらい、廉価多売路線

の商売のやり方が面白かった。

                                 ――END――

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