富山(氷見・高岡)の旅  22.07.28  天笠 富夫 

 今回の旅は、日本海側から北アルプスが見てみたいと思い、この梅雨の時期にかかわら

ず 無謀な一泊二日の旅のプランを作り、宿泊先を富山県の氷見(ヒミ)に決め、二日目

は氷見の近くにある富山県で大きい街で旧城下町の高岡を見物しょうと大ざっぱな計画を

たてて出発した。

 

東京駅から上越新幹線で出発、越後湯沢で北陸本線の特急に乗り換え富山を経由して高岡

に着く、高岡より最初の目的地氷見線で氷見に行こうとして、氷見線の電車に乗る、電

車の外側にはマンガが描かれていて、よく見ると「藤子不二雄の忍者ハツトリ君」だ、

電車の中には天井・壁にもマンガが描かれていた、藤子不二雄は地元の人らしい。電車

が走り出すとテレビの声優の声で行き先案内をし始めた、これを造った頃にはこの車両

もかなり話題になったことだろうと思われる。

 

 

終点氷見駅を降りる、氷見は寒流と暖流がぶっかる所で一年中いろんな魚が獲れる漁港が

ある、昼食場所を捜しながら「道の駅海鮮館」に向かう、街は比較的に人通りがあり、道

路の脇には「藤子不二雄の忍者ハツトリ君」のモニュメントがいたるところに建てられて

いて活気を感じられる。

 

しばらく歩いていくと海ぞいに大きな建物が見えてきた、行ってみると魚市場だ、中に入

ってみるとコンクリートとの床には海産物の取引が終わってしまったらしく人も物も何も

無かったが、よく見ると二階に市場の海寶という食堂があったので昼食場所をここに決め

た。

 

お客は地元の人が多く、50歳過ぎの人が多い、焼き魚・刺身・煮物などが準備されてい

て、一個々のものは大きく、味は新鮮でおいしく値段も安く充分満足した。その後本来の

目的地「道の駅海鮮館」に行く、ここは食堂と売店(海産物・みやげ物の販売)観光船の

発着場になっており、小さくまとまって良い場所だ。

 

この「道の駅海鮮館」そばの川に架かっている橋の脇に立派な五重塔があるのを気がつい

た、調べてみると観光地図にも案内版にも載っていない、興味がわき地元の人に聞いたと

ころ、家族に不幸がありそれを弔うため個人で造ったとの事で、あんまりふれたくなさそ

うでした。(帰ってきてインターネットで調べてみると、寺の名前は永明院で、建築基準法

を基準として建てられた初めて五重塔で平成14年に建てられた事がわかった)

 

 

 

 

駅に戻り迎えの車で今夜の宿泊先氷見グランドホテルマイアミに行った、ホテルはナト

リウム源泉の温泉を持つホテルで富山湾の海岸線に沿ってあり、天気が良いと目の前に

対岸の富山県側にある北アルプスが見られるという、特に山が雪で化粧される冬は見応

えがあり、身の締まった寒ブリ食べに多数の観光客が来るという、当日は曇りがちで全

然対岸の山が見えなかった。

 

[ 補足 前田家について ]

前田利家は加賀藩前田家の祖、織田信長に仕え朝倉征伐・姉川の乱・長篠の戦いなどに

従軍し功をあげた、織田信長亡き後柴田勝家と豊臣秀吉が戦った際、柴田勝家についたが、

裏切って豊臣秀吉に従った、その後秀吉は柴田勝家を破り、越中三国を利家に与えた、

秀吉からの信任は厚く徳川家康と共に五大老の一人となり、秀吉が亡くなった後は秀吉

の子供秀頼の後見人になり徳川家康との調整にあたっていたが、途中で亡くなった。

 

前田利長は利家の子で加賀藩二代目藩主、最初は織田信長・豊臣秀吉に仕えていた、前

田利家が亡くなり、前田家を継ぎ、関ヶ原の戦いでは前田家を守るため東軍(徳川方)

に味方をして加賀・越中・能登の3国を与えられた。(100万石) また前田利長は高

岡で高岡城を築いたが、徳川家からの命令で一国一つの城しか許可されないため廃城に

した(一国一城令)。

 

その後、幕府(徳川家)から多くの大名が取りつぶしになる中、前田家は外様(昔から

の徳川の家臣でない事)でありながら藩としては最大の100万石を維持し続けた、そ

して維持するのにかなりの苦労をしている。(興味がある方は調べてみて下さい)

[ 補足 の終わり ]

 

二日目は朝から雨、高岡駅に戻り、歩いて「国宝・瑞龍寺(ずいりゅうじ)」に行く

加賀藩二代藩主の前田利長公の菩提寺曹洞宗で三代藩主利常の建立の寺である。寺は仏

殿を中心に総門・山門・法堂(前田利長公の位牌がある場所)・禅堂・大庫裏などがあり

、入り口で入場料払い中に入っていく。

 

 

総門をくぐると前に山門が見えてくる、山門の両脇には仁王像が飾られすごく迫力がある、

山門より大庫裏にいく炊事をするところで大釜などがあり、通ると中学生ぐらいの生徒

が障子をはがし、障子張りをしていた、声をかけて「毎年やっているのか」と聞くと「

14歳になるとできる」と誇らしげな答えが返ってきた。

 

仏殿にいく、3体の像が奉られていて、下に菱形の畳が一畳敷かれ両脇には鐘がおかれて

それほど大きくない仏像が人の背の高さより上に置かれている、そこに50歳前後の坊さ

んが仏殿についての説明をしていた、「ここは歴代の藩主が意志決定をかるのに悩んだりし

たりすると、この仏殿に来てこの畳の上に座り考えをまとめて藩政をすすめていた場所で

ある」と言っていた。

 

確かに仏殿の畳のから座った位置を想定してみると、上部前面に3体の仏像、見えないが

仏殿を越えてさらに奥に法殿(前田利長公の大きな位牌がある場所)を意識して、歴代の

藩主はここに座り利長公ならどうしただろうかと思いめぐらしていたのではないかと思わ

れる。

 

 

  山門

 

 

 

仏殿

 

大庫裏

 

 

分骨チョウ

 

瑞龍寺は建物も立派であり、建物の間隔が広く、建物内部から外を見ると広い庭と建物が

調和し景観がすばらしい、

 

また寺の境内には前田・織田家御分骨チョウがある、これは利長公が本能寺の変後、織田

信長父子の骨を迎えてその霊をなぐさめ、この時利長公の父子も加えて5基の石チョウを

造ったといわれている。

 

瑞龍寺を出るとまっすぐ石畳で舗装された道がある、これが八丁道だ12分ほど歩くと前

田利長公墓所で個人の墓としては日本一大きいそうだ、高岡ではいかに前田利長公が大切

にされてきたかがよく分かる。前田利長公墓所からタクシーにのり日本三大仏と言われて

いる高岡大仏に行く、(高岡大仏が除外されて日本三大仏といわれている事もある)この大

仏は高さ15メートル、1933年高岡の銅器職人の技術を集めて造られたそうだ、実物

を見ると奈良の大仏・鎌倉の大仏と比較しかなり小さく、歴史が浅く、造る必然性も感じ

られず、大きいものを造るだけでは人の共感を得られないような気がする、高岡大仏を見

て東京に帰った。

前田利長公の墓

 

高岡大仏

 

最後に、富山の人は永明院の五重塔とか高岡大仏とか、少人数の発起人で大きなものを造

る意欲は旺盛ですが、どちらをとっても周りの皆で盛り上げていこうという意識が感じら

れないのはなぜかと疑問に感じた富山県人の気質なのかもしれない、

 

またこの旅行で一番印象的だったのは、瑞龍寺の仏殿での坊さんの説明のなかで、「人間は

一人で何を持たずに生まれきて、何を持たずに一人で死んでいく、」こんな事は知っている

と思っていたが、坊さんに言われと迫力がありドッキリした、更に付け加えて言った「だ

から自分の持っているものに執着をもたずに減らしなさい、また、それを引き継いでくれ

る人がいる人は幸せです」と言うことが印象に残った、そんな事を気になるのは歳をとっ

たせいかもしれない。

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