妙高(赤倉)の旅  09.07 天笠 富夫

 

    ――――――――――――――――はじめに―――――――――――――――――――

今回の旅は、2泊3日のバスツアーで、妙高山の麓にある赤倉温泉(新潟県)に決まった、宿泊先は文人 尾崎紅葉(代表作 金色夜叉など)がよく来た所です、訪れる場所として、昨年斑尾高原に行った時立ち寄った春日山神社などもあるが、現在放映中のNHKの大河ドラマ「天地人(直江兼続)」の舞台を地元のバスで巡る予定です。(その他の予定は特に決まっていない)

 

    ――――――――――――――――歴史の予備知識――――――――――――――――

越後(新潟)を平定した、長尾景虎(春日山城居住)は上杉氏(山内家)から関東管領(東国を支配する役職)を譲られて後に上杉謙信となった。謙信は生涯独身で過ごしたため子供がおらず、3人の養子を迎えているが後継者をはっきり決めていなかった、

 49歳の時脳卒中で倒れ亡くなった後、養子 景勝(謙信の姉の子供)と養子 景虎(北条3代氏康の7男で謙信が北条氏の同盟が成立して養子になった)が後継者争いを始め家臣も二つに別れて争ったが、春日山城を占拠した景勝が、御館(謙信に関東管領を譲った上杉氏が住んでいた場所)に籠城する景虎を破った。<御館(みたて)の乱>

 念のための説明ですが、ドラマ天地人の直江兼続は、景勝側の家老で、戦場に出るとき「愛」の文字が入ったカブトをかぶり常に景勝をたてて行動した武将です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

      ―――――――――――――――1日目(赤倉温泉)―――――――――――――――

天気予報によると、新潟県は1日目曇り・2日目曇り時々雨・3日目曇りのち雨である、つゆ時だからしょうがない。新宿からバスに乗る乗客は比較的若く年配者だけではなかった、宿泊地の赤倉温泉に着いた、天気は曇り明日からの天気がはっきりしないため、宿の

 周りを散歩した、旅館の前には尾崎紅葉の記念碑があったが草と蔓がかぶさっていて誰も手入れをしていない、(私も作者の名前は知っていますが、読んだ事はありません←だから取り残されているのかも知れません)

 宿の前の坂道を上がって行く、途中には道の両脇にところどころ「天地人」の赤い旗が飾られている、しばらく登ると足湯があり、周りには紫と青と白いアジサイの花が沢山咲いていた、6人ほど足湯に浸かっている人がいたが、よくみると湯が暑いせいか足を真っ赤

 にして浸かっていた、湯の中に手をいれると確かに暑いこんな暑い足湯は初めてだ。更に奥の方に行くと岡倉天心の終焉の地の記念碑として六角堂があり六角堂の中に岡倉天心の像がある、閑散とした温泉街を通り宿に戻った。

          

     ――――――――――――――2日目(バスツアー)―――――――――――――――

午前9時20分、地元のバス会社が運行する「天地人 ゆかりの地めぐり」バスに乗る、最初の目的地は勝福寺だ、勝福寺に着くと陽がてっているのに雨が降り出した、雨の中で傘をさしながら住職が寺の由来を説明し始めた、それによると勝福寺は鮫ケ尾城の城下に

 ある寺で、景虎が御館で景勝に負けて脱出して部下のいる鮫ケ尾城に逃げたが、部下の裏切りに会い自害をした、景虎を偲んで、この寺で法要が行われ供養碑などが建てられようになったという。

         

その後春日山神社に行った、この上は春日山城で、前に来たときと同様見学時間がなく残念であった、ここはツアーでなく個人で来なければよく見ることはできないだろう、春日山神社の下にある林泉寺に行った、林泉寺は昔春日山城の一部であったと言われ、謙信が修行した場所である。中はきれいに整備され、惣門(謙信の指示で春日山城から移築されたもの←写真左下)・山門・本堂・宝物館・上杉謙信の墓(写真右下)等がある。

         

門(写真表側と裏側)の額は謙信公直筆で表側が「春日山」・裏側が「第一義」(釈迦が悟った万物の真理)と書かれている、上杉謙信は亡くなったとき塩づけされ甕棺(かめかん)に入れて葬られていたが、上杉が会津に領地替えになり会津に移したといわれている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

バス巡りの最後の場所の「天地人博」を見にいく、ここは休日だとかなり人がでるそうだが当日は平日のため客は比較的少ない、中味はNHKの大河ドラマ「天地人(直江兼続)」撮影用のセットの展示で、深みがなく、そんなに面白いとは感じなかった。

 宿に帰る途中濃い霧が出てきた、これは天気が良くなる前兆かと期待をした、明日は帰りであるが天気が良ければ妙高山の上の方に登っていこう、天気が悪ければ下の方へ降りていって「池の平いもり池」の周辺を歩こうとした。

     ―――――――――――――――3日目(散策)――――――――――――――――――

天気は早朝から、少し雲がでているが晴れである、どこか良いところがあったら風呂に入ろうとタオル持参で、妙高山の頂上の方向へ歩き始める、道はスキー場で開発され舗装されていた、いたる所に動いていないリフトがあり人が誰もいない、1時間ぐらい歩くと

 10メートルの長さのトンネルがあり、それを越えると複数の建物が見えてきた、その建物の上の方に滝が落ちているのが見える、ともかく滝を見ようとして更に進んでいくと、標識でそこは燕(つばめ)温泉だとわかった、燕温泉は行ったことはないが妙高山の登山口で有名だったことを思い出した。

 更に1時間ほど歩くと燕温泉に着いた、しなびた旅館街には足湯があった湯をみると赤倉温泉の湯より白く濁っていた、場所が変わると随分温泉の質も変わるものだと感心した。茶店で一息いれ滝の事を聞いて見ると惣滝(100名瀑の一つ)だとわかった、茶店から惣滝に向かった川を横切る鉄製の橋を渡るとき、下を見ると河原の湯と小さく表示をしていたのを見た、(以前どっかの露天風呂の本にあったような気がした)

 橋を渡り惣滝に出る口は落石で通行止めになっていたので、先ほど見た河原の湯に行く事にした、橋の下の川に沿って曲がった山道を2分も行くと右側に6畳ぐらいの大きさの真っ白い湯船があり、露天の脱衣場があり男性3人が気持ちよさそうに入っていた、さっそく裸になり「コンニチハ」といって湯船に入り込む、少しぬるいが自然のまつただかのなかで最高に気持ちが良い、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本当に極楽々です、湯船の中で先に来ていた2人連れに話をすると、一人は東京もう一人は地元の人で、地元の人に風呂に行こうと言われて連れてこられたそうです、またこの近くには黄金の湯という別の露天風呂があり温度は少し高めとのことでした、それを聞き次に黄金の湯に入りに行き、その奥の惣滝展望台から滝を見て、同じ道を赤倉に戻りバスで新宿に帰った。

      ――――――――――――――――おわりに―――――――――――――――――――

今回の旅は岡倉天心(割愛)がでてきたり、最初考えていなかった露天風呂に入れたり変化があってとても楽しい旅でした。

 最後に勝福寺の住職の話を聞いていて、上杉の後継者問題が何となく気になり、調べてみた。上杉謙信から見て後継者として、景虎(北条3代氏康の7男)を考えていたようである、それは自分の以前の名前 長尾景虎の景虎を譲ったり、景勝の妹を妻にさせたり、軍役がないことから景虎は家臣という扱いではなかった、

 それに反して景勝は家臣の筆頭、上田長尾家当主として取り扱っている、また景勝にしても謙信に育てられたが、実父は謀殺され上田長尾氏の序列は下げられ、謙信への思いはテレビドラマのように単純でなく複雑であったろう。

 景勝は御館の乱の後、謙信の葬儀を執行せず、23回忌で葬儀を執行している、謙信の甕棺も景勝が会津に移つても持っていかず、新たに越後に入国した堀氏の求めに応じてやっと会津に移したそうだ、本当に歴史の裏側は面白いものですね。

                          ――――おわり―――――

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