平泉・気仙沼の旅

―――――――――――――――はじめに―――――――――――――――――――――

旅には、予備知識も見物したい目的もなしに、まだ行った事が無い場所になんとなく行っ

てみたくなる事がある、最初の主旨はそうであったが、現実は、前半は知っている場所、

後半は知らない場所の旅になった。

 

目的地は、通勤途上の渋谷駅にある「びゅう」(JR東日本の観光会社)のパンフレット

の中に「宮城三陸海岸の気仙沼」の案内があり、なんとはなしに今回の目的地を気仙沼に

した。

 

このパンフレットの中味は東北新幹線を利用し一関経由で、大船渡線に乗り換え気仙沼駅

まで自由に時間設定ができるツアーである、よく内容を見ると平泉に立ち寄る事ができる

ので、今回の旅行は平泉・気仙沼旅行になった。

 

予約後、勤務先のSさん(気仙沼出身)に見所を聞いて気仙沼の観光スケジュールを作っ

た。

 

<参考>平泉の補足説明→奥州藤原について

    平泉の場所を理解し易くするために藤原の歴史を説明します。

    平安時代末期貴族から武士に権力が移り歴史上の転換期の時代白河の関から北

を蝦夷と呼ばれていた奥州で、前九年(1051年)・後三年(1083年)

    の両合戦を経て奥州藤原氏初代清衡(きよひら)が平泉に都を造り統治した、

 

平泉は二代基衡(もとひら)に受け継がれ三代秀衡(ひでひら)の時代に最高の

栄華に輝いた。秀衡は京都の後白河院から鎮守府将軍に任じられ、奥州17万の

武士団を持ち、京都の中央政権から半ば独立していた。

 

平泉は平安末期で都市的機能を有し、日宋貿易拠点ともなった上、京に比較し遜色

もない大寺院中尊寺・毛越寺(もうつうじ)などが建てられていた。

 

    この平泉に1174年源義経が秀衡を頼って逃れてきて、1180年兄源頼朝

    が伊豆で挙兵したのを受け、兄を助けるため鎌倉へいき、平氏を破ったのは良い

が鎌倉の力が強くなり、源義経も兄頼朝より追われる立場になり、1187年

    再び義経が平泉を訪れたが、その年秀衡が病死した。

 

1189年4代目秦衡(やすひら)に頼朝が追討の圧力をかけ秦衡は衣川で義経

を自害に追い込んだが、5カ月後秦衡も殺され約100年続いた奥州藤原氏が滅

亡した。(興味のある方は別途調べて下さい)

 

    歴代の当主と主な寺の建立関連

       清衡(初代)―――中尊寺

        基衡(二代)―――毛越寺

        秀衡(三代)―――無量光院

 

――――――――――一 一日目 平泉1(一関・無量光院跡・高館)――――――――

東北新幹線の一関駅で乗り換えて、平泉駅に着いた、駅には「平泉の文化遺産」を世界遺

産登録へとの看板が駅に飾られ、観光ガイドもいる上、20年前に来たときよりも街全体

が観光地としてきれいに整理されていた。これは、今回は登録が見送られたが、世界遺産

登録活動の効果かもしれない。

 

 駅より、徒歩で中尊寺に向かって歩く、10分も歩くと無量光院跡(むりょうこういん)

だ、三代秀衡が宇治の平等院を模して創建している、現在は、建物はなく荒廃し、堂跡・

池の跡が残されている、寺院は阿弥陀如来を奉り、寺の大きさは平等院より大きかったそ

うだ。現在復元のイメージ図が飾られていた。

             

        無量光跡            高館義経堂

 

更に8分ほど歩き小高い丘を登ると高館だ、義経の住館があり、秀衡の子泰衡に急襲され

自害したといわれている、この場所に義経の木造が安置され高館義経(たかだちぎけいど

う)と呼ばれている、丘から下は衣川が見え景色は良いが、川に沿って高速道路が見え景

観を壊している、景観と便利さの両立は難しい。

 

――――――――――一 一日目 平泉2(中尊寺・旧観自在王院庭園)―――――――

高館から8分ほど歩くと、中尊寺の入り口「月見坂」です、団体もいないので道は空いて

いるためゆっくりと景色を見ながら坂を歩くことができた、いつもなら中尊寺といえば

金色堂イメージが強すぎるため、本堂を通り越し見過ごしてしまうが、本堂をまわって

              

         月見坂              金色堂

 

金色堂に向かう、金色堂は覆堂の中にあり、ご本尊は阿弥陀如来で金色堂の大きさ縦横5

メートルの事、以前見たときは金箔に圧倒されもっと大きく見えた、中には藤原三代の遺

体と秦衡の首が納められている、それにしても900年間の間よく残されていたのを感心

する、金色堂を出ると木造の旧覆堂がありこれがずうっと金色堂を守ってきたのだ、

               

         旧覆堂            旧観自在王院庭園 

 

中尊寺境内西奥に行くとかやぶきの能舞台(重要文化財)があり重厚で見応えがある。

列車に乗るには時間があるので、まだ行った事のない旧観自在王院庭園(かんじざいおう

いん)に行く、場所は毛越寺の隣にあり基衡の妻の発願で造られたという、ここは建物

は残されていなかったが浄土を表現する池が残されていて、林・山・池等が調和して非常

に美しい、あまり有名でないが、これで建物が残っていたらすばらしい場所だと思われる。

平泉より電車に乗り、一関より大船渡線に乗り気仙沼に着きホテルに案内してもらった。

 

―――――――――――一 二日目 気仙沼(大島)――――――――――――――――

気仙沼といえば、サンマを思い出すが世界で有数な漁港である、観光地として港を中心

として見ると、左に唐桑半島、真ん中に気仙沼大島、右に岩井崎のリアス式海岸がある、

港から一番交通の便がよく近い気仙沼大島に行くことにした、

               

      ホテルからの景観           港の景観

 

天気は曇り空、港から観光船で大島の浦の浜に行く、少し沖へ出ると海の中に網を張り

カキとか魚の養殖をやっている、遠くへ採りにいくだけでもなく、育てる漁業に変わって

きている、また船を目指して、海猫(?)がカツパエビセン等のお菓子を狙って船に近

づいてくたり、見ていて楽しい。乗船時間20分大島に着く。

    

    養殖場           島2(鳥)         リフト

 

着いて、島で一番高い山亀山の山頂を見ると上のほうに雲がかかっていた、ともかく近い

ところに観光地はなさそうなので、亀山の頂上へリフトで登ることにした、リフトを乗る

にあたり天気が悪いと困るのでリフトの運営会社が傘を貸してくれた。昇こと12分

 

頂上に着く、天気が良いと唐桑半島と太平洋が見えるそうだ、景色がはっきりしないので

下りる事にした、山形県の寒河江のお爺さんと一緒になり話しをしたところ、これでも

この一週間で一番天気が良いとの事でした、行きと同じコースをとり気仙沼に戻る。

 

―――――――――――一 二日目 気仙沼(街)――――――――――――――――

港の裏を歩く、車も少ないが、自転車に乗っている人はほとんどいない、街並みは古く

残っていて、そこは昭和30年代の街並みだが、その割には整然と整理されている。

この街並みが残っていたのは街としてあんまり発展していなのではないか、一番驚いた

のは、280円で売っている弁当(ありがとうランチ)だ、中味はなんだかわからないが

良く採算があうものだ。

              

        街中1               街中2

海岸線に沿って市場へ行く、歩いていると潮風と魚の匂いがする、市場は二つあり一つは

泊まったホテルの真下にある「お魚いちば」もう一つは気仙沼市魚市場の隣にある「海鮮

市場海の市」がある。

 

前者は狭いが店全体で陳列されている商品に重複していないが、値段が高いような気がする。

後者は複数の店屋が入っていて、同じものもあるが種類も多く比較して見て回ると楽しい。

適当に見てまわり、東京へ魚貝類を送り今回の旅は終わった。

 

――――――――――――――一 おわりに――――――――――――――――――――

平泉は、書きたい事は沢山あるが、平泉の旅でないので、ほどほどにした、ただ100年

も続き、金も沢山採れ、兵も17万人もあり力も充分あったのにいるのにあっけなく亡ん

だ藤原氏、なんとなく現在の日本に似ているように思えてならない。

また、街で中学生に会うと「こんにちは」と挨拶をしてくる本当に気持ちの良い街だ。

 

気仙沼の名物には、他に美容に良いコラーゲンを含んだ「ふかひれ」がある、ふかが

多いのか良く解らない、また観光地する所・食べる所に楽しそうなところが沢山ある、

別な機会に再度ゆっくり来てみたい。

 

最後にクイズ、気仙沼には、読みづらい地名が多いです、全部読めますか?

猊鼻渓――――――――>げいびけい

唐桑―――――――――>からくわ

粋活街――――――――>イキイキタウン

 

                     ―――END――――

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