山梨の旅(積翠寺温泉要害)2008.06.14――――――――――――――はじめに―――――――――――――――――――――― 今年も年に一度の囲碁合宿の時期にきました、囲碁をするために宿はチエックインの時間 が早く、東京近郊で比較的に価格が安い旅館を捜したところ、甲府にある積翠寺(セキス イジ)温泉要害旅館が浮上した、変わった名前の旅館であるが、参加者を募ったところ、 体調不良・用事と重なっているなどして低調であったが、参加者8名で実施した。 ―――――――――――――――参考・武田一族の略歴――――――――――――――― 話を進めて行くと武田一族の話がでてくるので、理解を深めて頂くために武田氏の歴史を ふれます、もっと詳しく知りたい方は別途調べて見て下さい。
武田一族は、源頼朝が鎌倉幕府を開く109年前の1083年に陸奥の豪族(現在の山形 県・岩手の一部)清原一族が反乱を起こした、それを平定するために朝廷より陸奥の守に 任命された源義家と義家の弟新羅三郎が参戦し鎮圧した、その新羅三郎を初代として甲斐 源氏の武田一族が生まれ、以降鎌倉・室町・戦国時代と長く続いていたが、
勢力が小さく一地方豪族の一つに過ぎなかった、18代・信虎が石和から甲府に移り大き く勢力を伸ばし、19代・信玄(補足1・2を参照)で栄華の頂点をきわめて、20代・ 勝頼で滅んだ。
<補足1 武田信玄> 宿敵上杉謙信と歴史に残る川中島の戦が有名だが、内政面では金山開発・治水等に効果を あげていた、領土も甲斐・信濃・駿河・美濃・遠江・三河を含めた武田王国をつくり、京 都を目指し天下統一をした織田信長と一大決戦する前に西上の途上で亡くなる等波乱の生 涯をすごした。
<補足2 武田一族の特質> 特質として父子の争いが多い事だ、16代・信昌は次男(信恵)に跡目を譲ろうとして、 長男(信縄→後の17代)と争った、18代・信虎・19代・信玄も嫡男に対して争いが おきた、戦国時代では親族が争った例は、織田・毛利・伊達などであったが、3代にわた って父子が争ったところはあまり例がない。
―――――――――――――――――調布から甲府――――――――――――――――― 午前10時京王線調布駅から車でスタートしたが、中央高速道路はなぜか渋滞、車中でラ ジオを聞いているとかなり大きな地震があったらしい、(岩手・宮城内陸地震)車は一宮御 坂ICより甲府に入り昼食場所を捜す、旅館の近くの武田神社に行けば昼食場所でもある のではないかと勝手な推測をして武田神社に行く、 武田神社は信虎が石和から甲斐に本拠を移した場所で、昔躑躅ケ崎(ツツジガサキ)と言 われ館があった場所の跡地に武田信玄を奉った神社が建てられた。館跡は今でも堀で囲ま れ、甲府盆地を見渡す事ができる。
来た時期も悪かったのかもしれないが、神社を見ると、さびれていて地元の人の熱意も感 じられず、神社内においての説明するための碑も少なかった、神社の周りをみると、申し 訳程度にみやげもの屋が一軒あるが食堂はない、近くにある喫茶店でパスタが作れるとの 事なので、喫茶店で昼食をとることにした。
コーヒーとナポリタンを頼む、コーヒーは美味しかったがナポリタンは本当まずい、色は トマト色であるが、全然味に反映されない、こんなもので商売なるのか疑問である、商売 上競走がないところだからしょうがない、コンビニで売っているパスタの方がずっと美味 しい、ともかく昼食をとり宿泊先要害旅館に向かった。 ――――――――――――――――旅館・要害――――――――――――――――――― 旅館に到着し、各自部屋に入り荷物を置くとさっさと風呂に入った後は、囲碁大会だ、囲 碁合宿は時間充分があるため、毎年総当たり戦が行われる。午後6時になると別の広間で 宴会?(どちらかと言うと雑談会)、今回は元社長や元組合の執行委員もいて、労働争議の 裏話で等の話しで盛り上がった。 昔はきつかったが、今思うとそれが楽しい?想い出となっている。今回は酒・ビールを皆 よく飲み囲碁大会は別として2時間近く雑談をしていた。
宴会後囲碁大会が再会された、再会された後、実力もあるが、(酒のせいか)気が大きくな り碁が大雑把で全然勝てなくなったが、ともかく午後10時頃囲碁大会は終了した。
終了後各自が風呂に行く、旅館は高台にあり露天風呂より、外を見ると蛍がとんでいるの を見たとう人もいたが、なんといっても甲府市内の夜景が見えすばらしい。
――――――――――――――要害山・散策(2日目)――――――――――――――― 朝5時30分旅館のまわりの散歩だ、旅館の裏は要害山だ、ここは国指定の史跡になって いる要害山城がある、この城は信虎が、政治を行うのは躑躅ケ崎で、戦時の時のために準 備をした山城である、登り30分程度で登れる、それほど高い山(770m)ではないが、 山全体が城になっていて、門・曲輪・広場があったが、頂上からの景観もなく、けわしく もなく、それほど特徴のある山城ではなかった。 要害山から下ってきて、道路を越して要害旅館の反対側を見ると、人の動きはないが、木 造の湯治場風の建物がある、人の気配がないわりに庭など掃除が行き届いてきれいだ、後 で旅館の人に聞いたところ、旅館要害の旧館で今は使われていないそうだ。
道路から更に下りの方向を見ると、お寺の頭が見えたので、道を川に沿って歩いていった、 川の脇は水田になり木の橋がかかり、春だったら童謡唱歌にでてきそうな景観だ、景色を 楽しみながら下って行くと寺に着いた、名前は積翠寺だ、朝早いせいかだれもいない、あ まり説明のかかれた碑もない、鐘釣堂もあったが迷惑なのでたたくのを自重し旅館に戻る。
<追記> 東京に帰って気がついたのだが、1521年駿河の今川信親が1万5千で攻めてきたので、 信虎は懐妊中の大井夫人を呼び、要害の山城に避難させた、その時生まれたのが信玄で 積翠寺には信玄が生まれた時使用した産湯の井戸が残っているそうです。
朝食後碁をしたが前日とはうって変わって良く先が見えて調子が良い、何でも波があるも のだ、午前10時に出発して東京へ戻った。
―――――――――――――――――おわりに――――――――――――――――――― 武田と言えば上杉を思い出します、昨年行った上杉神社と武田神社の比較をしますと、上 杉は明治維新まで続いたせいか、神社を中心に町全体が動いているように、非常に活性化 していた、それに反して武田神社は甲府では、観光上の核になっているが、精神的な核に なっていないような感じがし、とり残されているように思えた。 また山梨で有名な人といえば、他に人がいないわけではないが、だいたい誰でも武田信玄 を思い出す、また武田節の一節には「人は石垣 人は城」と彼の理念が歌われている、最 初聞いた時に、武田信玄は戦国時代の武将としては人間性に富んだ立派な人を想像してい たが、調べていくうちに、子が親(信虎を今川へ)を追放したりしている、親が子を殺した り(嫡男 信義)、娘を政策の具にし、義弟(諏訪頼重→娘が勝頼を生む)をだまし討ちに したりしている、戦国時代で生き残るためにはしかたがなかったのかもしれないが、彼の理 念とは何だったのだろう非常に興味があるところです。
最後に、今回は旅館に閉じこもっていたせいか、あまり甲府の周りの人の雰囲気をつかめ なかった事を反省しています。 ――END――― |