伊良湖岬の旅 |
2008.02.22 ――――――――――――――――はじめに――――――――――――――――――― 参加者は従来の旅仲間4人、今までは2ヶ月前に旅行日が決められたのに、今回は旅行日 の設定が難しかった、理由は旅の常連のメンバー中で、有償ボランティア(3人一組)で 働いている者が、最近ローティションで働く場所が変わり、ものすごく真面目な融通のき かない先輩(勤務日の管理をしている)の元で働いているため、休みが取りにくい事があ ったが、やっと一ヶ月前に2日間の休みの了解がとれ、急遽旅行先を捜し始めた、タイミ ング良く近畿ツーリストから旅行案内の本が送られてきたので、この中から選んだ。 選定理由として、南の方で少し暖かく観光用スポットとしては、見所がはっきりしない が、途中立ち寄り先がないのでゆっくりできるのが気に入って伊良湖岬に決定をした。 ―――――――――――――――新宿からホテルへ――――――――――――――――― 伊良湖岬は愛知県豊橋の近くの渥美半島の先端にある、宿泊先は伊良湖ビューホテルです、 出発は新宿都庁近くの駐車場、バスは午前8時50分東名高速道路経由で伊良湖岬に向か う。乗客はバスの乗客は若い人はおらず、中高年者が多かった、またこのツアーは移動時 間を節約するため、昼食のための駐車はせず昼食は弁当との事、あまり気が進まないの で、弁当の注文もせず途中駐車のドライブンで昼食を捜したが、弁当はなく、おにぎり (2個200円)しかなく、ともかくそれを食べて我慢をした、旅に出てこんなに 安い昼食で終わらしたのは初めてだ。また東名高速道路で沼津から先に行くのは久しぶり だった、途中久しぶりに見る茶畑が続く牧ノ原・鰻で有名な浜名湖を見ながら、東名高速 を下り国道42号線でいくと、ところどころにある風力発電機・菜の花畑を見ながら午後 2時伊良湖岬に着いた。 ――――――――――――――――ホテル・伊良湖岬―――――――――――――――― 宿泊先伊良湖ビューホテルは、伊良湖岬の先端から2Kmほど内側の海岸線に沿った海抜1 00メートルの小高い山に単独で建てられている。下を見渡すと海の中に「日出の石門」 といわれる、真ん中が空洞な岩礁が見られ、岬の先端にそって恋路ヶ浜の白い砂浜が見渡 せる、7階建ての建物である。 部屋に荷物を置き、伊良湖岬に散歩に行く、左手に恋路ヶ浜の海岸線を見ながら、30分 くらい歩くと伊良湖崎灯台があり、知多半島がよく見え船がいきかわっている、更に歩い ていくと「道の駅伊良湖クリスタルポート」だ、途中の散歩道の護岸用の石には、ところ どころに、この地にちなんだ詩がきざまれていた、
少しずつ詩をきざむ石を増やしているみたいだが、丁度今ぐらいの数だとよいが、多分バ ランス感覚を失い、際限なく増やし景観を壊すのではないかと心配だ。
ホテルに戻るとバイキングの夕食だ、和食・中華・洋食などがあり、少しずつとっても全 部は食べられない、うれしい事に和食には寿司(その場でにぎつている)・各種いろんな 魚・貝刺身等があり感激した、これは今まで経験したバイキングの中で一番種類があるので はないかと思われる。
――――――――――――田原市・伊良湖岬(2日目)――――――――――――――― 東京に帰る迎えのバスの都合もあり、田原市内には2時間半ほどしかいられないが、田原 市の城を見に行く、田原市は渥美半島の中央にあり、豊橋より豊橋鉄道渥美線がきており、 その終点の場所であるが、事前に調査はしてないので、どんな街だかわからない。 「道の駅伊良湖クリスタルポート」まで歩き、午前9時15分発のバスに乗り50分で田 原駅前につく、駅前からは城が見えない、通行人に聞きやっと方向がわかった、入り口の 桜門、二ノ丸櫓を入っていくと左手の田原博物館が中に入ると、ビデオを見せられた、その 内容は東京の三宅坂から始まり渡辺崋山の生涯を映していたのが印象的であった、なかの 展示物は渡辺崋山の説明や、崋山の友や弟子たちの絵が展示されていた、ともかく田原市 博物館というより渡辺崋山資料館であった。渡辺崋山は江戸末期にいた人で名前は聞いたこ とがあるが高野長英と混同していた。(渡辺崋山の略歴は参考欄を参照の事)
田原城の本丸今では巴江神社になっているのを見てまわっていたら、一緒に来た仲間 とはぐれていしまった。帰りのバスの時刻まで充分あるので、これを幸いとして少し まわりを単独で歩いてみた、城の隣に崋山神社があり、渡辺崋山の名前は藩主より 有名です、三宅氏の墓所霊厳寺があるというので案内板に沿って霊厳寺の手前の神明神社 (後でわかった事)までいったがわからなかった。 ぼちぼち駅に戻ろうとしたが「田原まつり会館」があったので中を見学した、中には 大きな山車が2基と大きな凧がかざってあった。ここは風が強いため昔から凧揚げが をしていた、これが渥美半島で見られる風力発電に利用されているのがよくわかった。
田原駅に戻ると仲間達はベンチに座っていた、時間があったので昼食をとり、バスに 乗りホテルに戻ったが。ホテルでの迎えのバスは予定の発車時間午後3時を過ぎても来な かった、原因は伊豆の河津桜見物のため沼津で混んでいたため遅れたとのことでした、4 0分遅れで出発し「菜の花摘み」に行く、
菜の花は3分咲きでまだ花が小さく、菜の花独特の匂いもしていなかった、摘み方として 鑑賞用と食用と違う、鑑賞用は花つきで上から25CMで摘み、食用のものはつぼみで上 から15CMで摘むそうだ、全般的に食用に摘んだ人の方が多かった。 菜の花摘みが終わったら一路新宿へ出発だ、新宿は20分遅れの9時20分に到着しこの 旅は終わった。
―――――――――――――――おわりに――――――――――――――――――――― この旅でのハプニングは無かったが、気になったことを書いてみました。
友人のボランティアで休みの管理をしている人をみると、今まで何をやっていた人なのか 知らないが、もう少し柔軟に力を抜いて楽しく働けないものなのか、つまらないと思う、 歳をとると頑固になるので自分を含めて少し注意しましよう。
田原市は古い静かな落ち着いた城下町で、寺や史跡が多く見切れなかった、博物館の映像に 三宅坂が映っていたのが気になり、調べてみたところ、田原藩の藩主は三宅氏で現在の皇居 の近くに上屋敷があり三宅坂の名前で残っている、上屋敷跡は、いまでは最高裁判所・国会
図書館になっている、歴史とは面白いものですね、また渡辺崋山は多能な立派な人ですが なぜ崋山神社として祀(まつ)られようになったか分からなかった。
最後に伊良湖ビューホテルは山の上にあり、景観もすぐれ見応えがありますが、ダイエット を気にする方には勧めません、各種バイキング料理があり新鮮で美味しいため、行った仲間 全員2KG以上も太ってしまったからです。 ――――おわり――――
−―――――――<参考> 渡辺崋山(1793年〜1841年)―――――――――― 渡辺崋山は江戸後期の政治家であり画家でもあり通称は登る(のぼる)号は崋山で、 田原藩士渡辺定通(実質15人扶持)の長男として江戸の上屋敷で生まれる。幼少期 は貧しかったため絵をかいて売って生計の支えていた、20代半ばには画家として、30 代には西洋画法に心酔して有名になった、
だが藩主の三宅康友より目をかけられ、少しずつ出世し、40歳の時家老になる、また 政治家としては藩政改革をして各種殖産興業を行った、1836年天保の大飢饉に際し ては、あらかじめ食料備蓄をしていたため藩内で誰も餓死者をださなかったため、幕府 より唯一表彰をうける。
1837年のアメリカ商船(モリソン号)への発砲に関しての幕府対外政策を批判した、 ために友人の蘭学者高野長英等の者と、幕府で問題視され、渡辺崋山は藩に迷惑が及ぶこと を恐れ切腹をした。
なお絵の代表作として 肖像画「鷹見泉石像」は国宝になっている。 |