山梨の旅・匠の会 2007.12 ―――――――――――――――はじめに―――――――――――――――――――― 「友達の友達がアルカイダー」という大臣もいましたが、「友達の友達が住職」というケースで 今回は始まります、旅と言えるかどうかわかりませんが、ともかく山梨に行ってきました。
Kさんの友人で寺の住職をしている標(シルベ)隆光さんより12月23日に「冬至祭」をやる 連絡を受け、Kさんより一緒に行かないかと誘われ、ついでに、どこかに寄りたい所があるのか と聞かれたので、初鹿野の近くの景徳院に行ってみたいと答えておきました。
―――――――――――――――景徳院――――――――――――――――――――― 中央線相模湖駅で待ち合わせKさんの車に同乗し、中央高速道路の勝沼で下り景徳院に向かう、 景徳院はJR甲斐大和駅から日川沿いに上っていった所にあり、武田信玄の後継者勝頼が自害し た場所です。 この自害で495年続いた武田家は事実上亡んだといわれている、勝頼は織田信長・徳川家康に 攻められ、建設途上の新府城(韮崎市)を自ら焼き部下の小山田信茂の居城岩殿城(大月市)に 逃げよぅとしたが小山田信茂にも裏切られて、あきらめて自害するために、天目山棲雲寺に向か う途中の田野で(景徳院のある場所)追撃を受け合戦をした後、逃げきれなくなり自害をした。 天正16年(1588年)徳川家康が菩提を弔うために、この地に寺を建てた、ここには自害し た場所・墓・寺と山門等が残されている。
到着した時、早朝に降った雪が残っていた、入り口に立つと今年のNHK大河ドラマ・風林火山 の看板及び寺の宣伝が両側に立てられ、寺の雰囲気と合わずあまり良い印象を与えないそれで も、寺の入り口を掃除している人に寺を訪れる人は多いのですかと聞くと、あまりはっきりした 返事は戻ってこなかった。
入り口より少し上った所にある没頭地蔵尊を見る、これは勝頼(37歳)・夫人(19歳)・信 勝(16歳)を祀ったお地蔵さまで、3体とも頭かありません。更に奥へ行くとそれぞれ3人が 自害した場所があり、3つ並んで柵に囲まれていて保存してあった。 自害した場所の後ろには、勝頼の墓があり、辞世の句がかかれていた。本堂はあったが、宣伝の 看板が邪魔をして落ち着かず良くないが、そのかわり山門がどっしりしていて存在感がありすば らしい。
勝頼の辞世の句 おぼろなる月もほのかに雲がすみ、 はれてゆくえの西の山の端 <昔の人は死に臨み、すぐに辞世の句ができるのですかね、それとも常に死を予感し句を作って いたのかもしれない>
――――――――――――――――明王寺――――――――――――――――――――― これより本来の目的地明王寺に向かう、場所は甲府盆地の櫛形山の麓の増穂町にある、宗派は真 言宗智山派(空海の流れ)で本山は智積院(京都)にあり成田山新勝寺・高尾山薬王院・川崎大 師等も同じ宗派にある。
AM11:30に明王寺に着く、寺は神仏混合で隣には熊野神社もあった。早速Kさんより住職 を紹介してもらう、普通坊さんは人生が悟りきったような顔をして、高飛車に接しられ、こちら が萎縮するような気がしていたが、この住職の年齢は坊主頭なので良く解らないが50歳ぐらい で、ともかく忙しそうでしたが、非常に温和で一生懸命接して頂き非常に感じが良かった。当日 は「冬至祭」境内でほうとう・漬け物・カボチャの煮物を振る舞っていた、さっそく椅子に座り ごちそうになる、ともかく大根と白菜の漬け物がおいしい、周りを見渡すと70〜80歳位の老 人とその孫が大勢きていた。食後再び住職が来て宝物館を案内してくれた。 そこには国宝重要文化財が2点(薬師如来像・鰐口)・県指定文化財1点(不動明王版木)・町 指定文化財1点(織田信長禁制札)が展示されていた。 撮影禁止なので写真はとってこなかったが明王寺のホームページに掲載されていますので興味あ る方は見てください。このうち興味があったのは織田信長禁制札です、武田勢が破れた後建てら れたもので、狼藉をしてはいけない・樹木などを勝手に伐採してはいけない等の注意書きがされ ています、昔から治安に随分配慮していると感心しました。 しばらくすると、本堂での講話と護摩法要です、住職が釈迦の話・大乗仏教と小乗仏教の違い・ 神仏混合の話・寺の歴史・本尊の話などをした。ここで興味があったのは明王寺は昔、東大寺と か薬師寺などの末寺になった事、現在の本尊は五大明王で明王とひもでむすびお祈りするそうで す。
やがて護摩供養に入りました、ほら貝を持った坊さんがほら貝を鳴らし、別の坊さんが太鼓をた たき、お供物(米・大麦・小麦・大豆・小豆・胡麻・お香等)を炉にくべて焼いて願い事をし、 信者がその煙を体の悪い部分にあてると直るそうですが、誠に申し訳ないのですが、そこまで信 仰心が強くないため私は途中で本堂より退散しました。
護摩供養の終了後、貴重な経験をさせて頂いた明王寺を後にした。
―――――――――――――――――帰り道―――――――――――――――――――― Kさんは、時間が早いと高速道路も込むのではないかと配慮し、昔一緒に働いた者を待たせてい た、GさんであるGさんは甲府に転籍になり、転籍者の多くは東京に戻ろうとしているが、甲府 で家を建て本格的に地元に溶けこもろうとしている人です、昔の想い出話・現在の仕事の状況な ど話しをして昔を思い出し面白かった。その後甲府盆地の夜景が見られる丘の上にある「みたま 湯」に行き露天風呂で甲府の街を見おろして今回の旅は終わった。
―――――――――――――――おわりに―――――――――――――――――― 景徳院で感じた事、武田勝頼は猛将なのか、二代目の弱さが出たのか、信玄が立派すぎて比較す るのがいけなすのか、良く分からないが、武田勝頼は自害した時何を思っていたか非常に興味が 深い。
ちなみに新府城を出た時は600名、田野での合戦の時は逃亡して41名しか残らなかったと言 われている、ともかく部下を統率できず信頼を失って失速していったのではないかと思われる、 これは現代の企業にも通用する事です。
明王寺は平成14年に本堂を再構築したが、檀家が10軒しかなく4千万円の寄付を集め再構築 をした、歴史は(770年)古いが維持するのは大変そうです、ホームページを立ち上げたり、 インターネットで明王寺と検索すると最初に表示するように工夫をする等IT(情報技術)を駆 使して、お寺を発展維持させている姿には頭が下がります。
また今回の明王寺を訪ねて、宗教というものは、お釈迦さまが言われた事をいろいろ解釈し、良 く言えば発展しながら、いろいろな宗派に分かれてきたのではないかと思われます、原理原則に とらわれると争いの種にもなります、ともかく宗教は難しいです。
―――――――――――――――追 記―――――――――――――――――――――― 「匠の会」の紹介 7年前NEDKが解散した年に、町田市の匠寿司屋(小峰さんの親戚)で初会合が開かれ、毎年 一回継続して忘年会を開いておりました。この名は嘉川さんがつけたもので使わせもらっていま す。メンバーはNEDKの元社員です、OBもいますが、現役で働いている者の中には、米沢・ 白石・群馬・甲府・東京で働いている者もいます、会はNECの年末休みの最初の日に設定して います、メンバーは少しずつ変わっていますが毎回12〜13名の集まりです。 今まで参加者されていた方は30名位です、就職のため地元に帰った人・来るのが大変だ・年末 で忙しい・現状に忙しくかまっていられない人などいろんな人がいます。 「匠の会」かいから連想されるイメージの技術者・技能者の集団ではなく、どちらかというと、 影ひなたなく真面目に企業を側面から支えていた人の集まりです、今年も12月29日に開催さ れました、当日は金子元社長も来られ、近況報告等いろんな情報交換がされました、来年も開催 します参加希望者は申し出て下さい。 −――END―――― |