米沢の旅(白布温泉)2007年5月18日出発 ――――――――――――――――はじめに―――――――――――――――――――― 今回の旅は米沢(山形)です、60過ぎの男4人で、近くの温泉を楽しんだ後、昔一緒に仕事をし た仲間(現役・後輩)に会い、地元を案内してもらおうとする欲張った計画です。
米沢は昔山形新幹線が無い時代に、仕事で来た事があった。福島駅から在来線に乗り換え 車窓からしなびた景色を見たりして、駅前の旅館に泊まったが、酒好きの同行者と一緒なため 市内を全く見られず、一度ゆっくり来てみたいと思っていた。
宿としては、山奥の温泉で、しかも米沢駅まで無料の送り迎えをしてくれる白布(しらぶ)温泉 中屋不動閣別館に決めた。 ――――――――――――――1日目(東京〜米沢)―――――――――――――――― 東京駅より東北新幹線「つばさ」に乗り2時間20分で米沢駅に着く本当に速いものである。 米沢駅では旅館からの迎えの車が来る、1時間20分のあいだ昼食場所を捜しながら、周辺を 歩いてみた、新幹線の停車駅として、駅には売店など整備されていたがこれはという特徴はない。
街の中には米沢牛を食べさせる店が目立つが、みやげもの屋が少ない、なかに観光客に さくらんぼを売っている店が一軒あったが、5月中旬なので収穫時期が早く値段も高すぎる。 パチンコ屋もないし、地元の人はあまり歩いていない、駅前なのに活気を感じない、やがて 旅館から迎えの車がきて旅館に向かう。 ――――――――――――――1日目(白布温泉・白布大滝)――――――――――――― 車に乗り市内から山道へ向かい乗る事40分で白布(しらぶ)温泉中屋不動閣別館に着いた。 白布温泉は西吾妻山(2035M)の麓を流れている大樽川沿いにある、旅館の番頭の説明に よると、温泉としての歴史は700年ほどらしい。
昔から(時期不明)から東屋・中屋・西屋の3軒の茅葺き屋根の旅館があったが、7年前に中屋 (築300年の建物←他から移築)から出火し、東屋を含めて焼いてしまった(西屋のみ茅葺きは 残った)。火災後中屋は本館とは別に、湯治場用としてあった別館(築150年)を利用して旅館 として営業している、そのため本館がなくても別館と呼ばれている。 (東屋は近代的な建物で再建をした)
旅館の通された部屋は2階建ての2階で和室である、外を見ると下には渓流が流れ水音も聞 こえ、前面にはうつそうとした緑の渓谷の場で自然を満喫できる。
今日の天気は曇り、明日の天気予報は曇り・雨、ともかくはっきりしないので、近くにある白布 大滝を見にいく、ここで横着をして靴を履かないで旅館から下駄を借りていった。東屋・西屋旅館 の前を通りしばらく行くと、滝の見える川に降りられる道があり降りていく、 けっこう段差がありきつい、まして履きなれない下駄をはいているため、足の親指が鼻緒にあたり いたくてしょうがない。靴をはいてくればよかったと反省をしながら、ガンバッテともかく川の水辺 に降りていった。 川の上流を見ると大きな滝だ、落差50メートルといわれている、見応えのあ る滝を見て、旅館に戻り露天風呂に入った後、川の音を聞きながら囲碁をうち一日は終わった。
――――――――――2日目(新高湯・白布森の館・白布温泉)――――――――――――― 二日目は朝から雨が降っていた、予定していた天元台(日本百名山の西吾妻山の中腹)の散策 はやめて、道がしっかりしている新高湯温泉に行くことにした。 (白布温泉より大樽川の上流にある日本秘湯を守る会に入っている) 雨は午前10時頃から少し小降りになり、旅館から傘を借りて出発した、途中小さな滝・草花が咲 ききれいだ、新高湯温泉に近づくと雨がやみ、新高湯温泉では足湯を見つけて足湯に入りながら ビールを飲む本当に気持ちが良い。
落ち着いてから、露天風呂の入湯料を払って建物の外にある風呂に入る、湯を交換し補充し ている最中のため本来より湯量が少なかったが、岩で囲まれた浴槽から下を見ると、 緑で覆われた天元台が見渡せ、上の方向を見ると滝が見られる本当に心地良い。
帰りは同じ道をここから戻り、途中にある白布森の館に寄る、この館では白布の植物・動物の 写真が飾られ、風呂も有料で解放していた。奥に入っていくと小さな体育館があり55歳位の 夫婦が卓球をしていた、私達も時間があるのでラケットを借りてきて卓球をはじめた、驚いた ことに4人とも一通り卓球ができなんとか試合になる、卓球は中高年のスポーツであるとの 認識を強めた。 卓球をした後、白布温泉に向かって下り脇道に入ると三十三観音とか薬師如来堂などがあり、見 所が沢山ある、これは歴史の古さのせいである。 ―――――――――――――3日目(上杉神社・米沢市内)―――――――――――――― 後輩との待ちあわせ場所は、上杉神社の隣にある上杉伯爵邸です。近くまで旅館の車で送って もらった、上杉伯爵邸の庭は広く、うまく会えなかったが、携帯電話を利用し互いの位置が確認 できてやっと会えた、一緒に行った者の中には、10年振りの再会もあった。 お互いに話をしたがつていたが、米沢市での最大の見所である上杉神社を案内してもらった、 神社は米沢城の一部につくられている、ここには上杉謙信を祭神として祭られている、入り口 には、謙信ゆかりの「昆」と「龍」の旗がなびいて、上杉謙信の像がある上杉神社に来た事を 実感した。
境内に入っていくと、上杉鷹山の像も碑かざられている、ここは米沢市民の心の中心だ。境内 では火縄銃の実技演習を行っていた、見ていると戦国時代の鉢巻きをした武者が、銃に弾 (空砲)をこめ火縄に火をつけて発砲した、かなり大きい音がしいビックリした、また銃を撃った 瞬間にかなり撃つ人に反動がかかるのがよくわかった。
神社を見た後、ともかく昼食とおしゃべりのために(あまり適当な場所がない)、米沢ラーメンを 食べながら話をした、現在の状況説明の一環として、車で米沢の工場を案内してくれた。 20年前に来たときと違い建物も一新され、昔の面影もない、米沢駅まで送ってもらい今回の旅 は終わった。
――――――――――――――3日目(後輩たちとの交流)―――――――――――――― 米沢の案内を頼んだ後輩は2名である、勤め先は地元米沢で一番大きい工場であるが、分工場 で働いている、物価は安い(EX 一戸建てが800万円くらいからある←どんな家かわからない)、 車がないと動けない所で、冬は寒く1日で70CMも雪が降ったこともあり雪下ろしが必要な場所 である、地元の人の気風は耐える力は強いが覇気が感じられないとの事。 (この事は上杉の歴史に関係あるのではないかと思った←追記参照)
後輩達が米沢にいるのは、6年前に転籍になったためだ、給料は当初は東京と同じであったが、 地元米沢の給料を意識して給料を下げさせられたうえ、以前なかった高年齢による引き下げと、 60歳以上になると更に減額されるという。昔と違い年金をもらうまで、
60歳過ぎでも働く必要がある、しかも東京に家族を置いての二重生活も難しくなる、それで東京 で新規に働くことを考える必要があるそうだ、私達の時代よりズット厳しくなっている!
――――――――――――――――おわりに―――――――――――――――――――― 天気がはっきりせず、天元台散策・米沢の史跡巡りもまだものの足りなさが残ったが、白布温泉 ・新高湯温泉を満喫でき楽しかった。
後輩との交流は「HAPPY! HAPPY!」で終わるかと思っていたが、後輩の大変さ・苦悩が わかり、こちらは(それなりの苦しさはあるが)楽しい旅行をし、後輩は苦しみながら将来を考えて 働いている、互いに段差を感じた。私どもできる事は情報を伝えそれが役だてて、手助けにして もらう事ぐらいしか思いつかない、今回の紀行文は少し辛口になったしまった事を反省します。
―――――――――――――――追記(上杉氏の歴史)――――――――――――――― 上杉氏は謙信の養子景勝が越後から会津へ移封され関ヶ原の合戦後負けて30万石へ削封さ れさらに3代藩主綱勝の急死により15万石に減らされて、藩財政は極度に悪化した、八代藩主 重定の時代になると、借金が多く、藩を幕府に返そうとしたくらいである、そこに九代藩主鷹山 (養子)が富国政策を実施、改革を行い借金を返済した歴史がある。
また、米沢藩は江戸時代270年間上杉氏が支配していたが、領民に占める武士が多く、四分 一が武士であつた。それは越後・会津120万石時代の家臣数を30万石、15万石と減らされて も武士の数を減らさなかった、そのため堪え忍ぶ我慢強さが今日まで生きていると思われる。
上杉家系 謙信−景勝−定勝−綱勝−綱憲−吉憲−宗憲−宗房−重定−鷹山 以下略 1代 2代 3代 4代 5代 6代 7代 8代 9代
綱憲は吉良義央(忠臣蔵での仇討ち役)の子供で上杉家に養子になった。
最後に上杉神社の上杉鷹山の像の脇にあった句碑紹介します。
なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり 上杉鷹山 ―――おわり――― |