戻る                  小笠原紀行          2006年11月   執筆者 天笠


――――――――――――――小笠原概略紹介―――――――――――――――
小笠原は東京港から南南東に約1、000KMにあり、父島列島・母島列島など180の島で成り立っている、東京からは航空便はなく週1回東京と父島間を25時間30分かけて「小笠原丸(6679トン)」が就航している。母島は父島より50KMさらに南にあり週3回程度父島と母島の間を2時間かけて「ははじま丸(490トン)」が就航している。

島の面積は小笠原最大の父島ですら24万平方キロメートル、グアム 549万平方キロメートル、ハワイのオワフ島554万平方キロメートル、沖縄の石垣島221万平方キロメートル等と比較すると小さい島である。

歴史的にみると、昔は無人島であったが明治時代に小笠原が日本の領土になると、内地や八丈島から続々植民者が送りこまれ開発されたが、太平洋戦争で日本が負けてアメリカの統治下になり、1968年6月22日にアメリカから返還され今日に到っている。(歴史の説明にはかなり省略があるため、興味のある方は是非調べて下さい。)
  
――――――――――――――は じ め に――――――――――――――――
小笠原の旅は後3〜4年後で期間も10日ぐらいかけゆっくりと見て回ろうと構想を立てていたが、皆が元気なうちに行ったほうが良いのではないかと、考え方を変えて今回実施した。

参加者は4名、私とYさんは、小笠原行きは3回目である、一回目は1995年5月で父島中心、2回目は1997年5月父島中心であるが母島への日帰り往復をした。今回は小笠原が初めてのKさんとTさんで、母島で2泊・父島に1泊の行程だ。

行程が決まってからインターネットで見ると台風が直撃したり船が欠航になったり、本当にスムーズにいくかな、もしも母島にでも取り残されたら更に1週間足止めされるのではないかと不安をいだきながら準備をしていた。

宿泊先はインターネットで調べ、電話で予約したが、父島と母島の民宿ともに日にちと人数と電話番号を連絡するだけでよく、予約金もとらず住所の確認もしない、本当に予約がされているのか疑問を感じながらともかく小笠原に出発した。

――――――――――――――――行  程――――――――――――――――
1日目  東京港(浜松町・竹芝客船ターミナル)10:00発
2日目  11:30小笠原・父島12:30―――→14:30母島 民宿泊
3日目  島内見学・釣り  母島民宿泊 
4日目  母島散策後  母島発14:00―――→16:00父島  父島民宿泊
5日目  父島見学   父島14:00発 
6日目  15:30東京港着

――――――――――――東京から父島経由・母島へ―――――――――――――
 予定どおり午前10時に「小笠原丸」の出港だ、ドラの音がなり甲板に出て景色を見ると、レインボーフリッジの下をくぐり、東京の方面を見ると品川・六本木・汐留・佃島・お台場等高層ビルのラッシュだ、本当にビルが多くなった、これでは東京タワーも目立たない。

船はどんどん進み伊豆大島を越すと外洋に出たらしく、低気圧の影響をもろに受け波が高くなり横揺れがはげしくなり立っていられず横になった、この揺れが長く続きとうとう全員夕食を抜いてしまった。

翌日午前7時頃横揺れは小さくなったのと、波に馴れてきたので食堂でやっと朝食をとった。
午後12時30分1時間遅れで父島二見港に入港したが、揺れの後遺症と母島への乗り換えの準備のため落ち着いて父島を見る事ができなかった。

母島へは「ははじま丸」が予定より40分遅れの午後1時10分に出港した。小さな船で心配していたが大きく揺れる事無く約2時間かけ午後3時30分に母島沖港に着いた。
         
――――――――――――――母島T(沖港周辺)―――――――――――――――
母島に着くと民宿の一見純朴そうな主人が車で迎にきていて、宿泊先まで案内してくれたが宿泊先は沖港より歩いて4分程度のところにあった。民宿では風呂は空いている時に利用可能、酒は提供しないので、自分で持ち込んで下さいとの事。

さっそく民宿に荷物を置き、沖港の周りを見て回った、湾をとりまくようにある防波堤にそって歩いていくと、蟹(カニ)が岩場に横歩きにチョロチョロ歩いている、また海面を見ると20CMぐらいの魚とか・1Mぐらいの鮫が静かに泳いでいた。

後で聞いたところその場所は、鮫が浦とよばれていつも鮫がいるが人間には危害を加えないそうだ、それでも恐そうだ。

その後酒を購入するために店屋にいった、買い物ができるところは島に3軒しかなく、しかも軒を連ねて並んであった。そのうち2軒は「ははじま丸」からの入荷物の整理をしていて販売をしておらず、

もう一つの店M商店にいくと店内に10人ほど並んでいて長い行列ができていた、地元の人によると本土から観光客と一緒に物資が送られてきて、それが売られていて特に生鮮食料品はすぐに無くなるそうだ。

M商店でビールを購入し民宿に帰る途中小学4年生くらいの女の子に「コンニチハ」と挨拶されキョトンとして「コンニチハ」と挨拶でこたえた、児童からここで挨拶をされたのは、観光客を大切にする島民の気持ちを感じ本当にうれしかった。

<参考 母島の概略>
母島には北から南へ一本の都道が走っている、北は北港から南は南崎入り口まで整備されている、端から端まで車で30分ぐらいで、この都道を中心に脇道がある。島の人口は450名「ははじま丸」が入港した沖港の周りで生活のためのインフラを整備し全員が生活をしている。

―――――――――――――――母島U ガイドによる観光―――――――――――
翌日島内を見物しょうとした、方法として車を借りて自分達で回るか、費用が高くなるがガイド付きで案内をしてもらうか迷っていたが、自分達が地図を頼りに現地に行って見ても、何もわからないし、地元の生活に接するためにガイドをお願いした方が良いと思い、沖港にある観光センターを通しガイドを依頼した、午前9時から11時30分の予定で島内を案内してもらうことにした。

ガイドは30代男性でワゴン車で案内してもらった、北港へ行く途中色んな植物の説明を受けたが植物の知識が乏しいので、あまり理解ができなかったが、桑ノ木山で在来植物のコブの木が、人間が持ち込んだアカギの木に負けて養分をとれず枯れてしまっているのを目にした。

この実情を見て、このまま放っておくと小笠原の在来の植物は外来の植物にとって変わってしまい、例えば、コブの実を食べている鳥類等が滅び、生体系が狂い、大変な事になってしまう。また在来固有植物を保護するために活動している人たちは、強い外来植物の撲滅と弱い在来植物の育成するために苦労している事が良く解った。

北港は現在使われていないいが、戦前は非常に盛況で450人ほど住んでおり、捕鯨・カボチャを栽培していた、とれたものを本土に送り多くの収入を得て非常に裕福であったといわれている。

ところが太平洋戦争が始まると、民間人は全員島から撤収させられて7000人の兵隊がきたが食料が不足し餓死者もで始めたという、戦争が終了すると無人島になり外来植物のガジュマル等がはびこり畑等が一面のジャングルになってしまった。

小笠原(父島)がアメリカから返還された5年後母島は日本に戻ってきたが北港の周りの地主は畑を再度開発をする意欲を失い今日にいたっている。

又今回のガイドの中で太平戦争中使った高射砲や、米軍機の位置を照らすための探照灯基地跡等が見られる、戦争の傷跡が戦後60年たっても残っているが、このままサビさせて朽ち果てさせるのには、歴史遺産としてもったいないような気がしてしょうがない。
                                        
―――――――――――――――母島V 釣り――――――――――――――――
母島の島内観光後は、沖港の防波堤での釣りだ、Y氏の指導のもと釣りを開始する、エサはオキアミだ、釣り竿を入れれば20CMクラスの鯵がすぐかかる、かかった魚は食べるのが目的でないため、すぐ海に放してしまう。
                                           
あんまり簡単に釣れすぎるので興味が半減して、私はロース記念館によって民宿に戻った、他の者達は釣りを続けたが、夏の夕立みたいな暖かい雨に降られて、濡れながらみんな帰ってきた。

―――――――――――――母島W 小富士登山―――――――――――――――
昨日からの雨が8時頃やんで曇りになった、今日は父島に午後14時に戻る日だ、午後14時まで時間がもったいない、昨日ガイドさんが日本で民間人が住んでいる場所で最南端のの富士で「小富士(86M)」があると言われ気になっていた。

観光センターに行き歩く距離を短くし「小富士」に登るため、都道の南端まで往復車に乗せてもらうことにした(有料)、運転手は昨日のガイドさんだ、2時間30分後都道の南端まで再度迎えにきてもらうようにした。

都道の終端から南崎をめざして歩いていくと、大きなタコの木やマルハチ(シダ)やビロウの木などが良く見受けられ、その木々の間にはメジロと言う名の鳥が飛んでいる、ここのメジロはおっとりしているせいか人が近寄っていっても逃げないので落ち着いて観察する事ができる。

更に歩き、南崎に近くなると左折する道がある、「小富士」の登山道だ、少し階段を登っていくと頂上です、頂上に標識がたっていないのが残念であるが頂上からの景色はすばら帰りは同じ道を戻り都道の終端から迎えの車に乗り沖港に帰り、午後14時発の「ははじま丸」に乗って父島に戻った。

―――――――――――――――父島T 観光――――――――――――――――
民宿で宿泊後、出港の合間を使って、父島1km先にある離島の「南の島」へ行きたかったがこの時期、自然を保護するため観光客の立ち入りは禁止されているのであきらめた。また空を見ると曇っていて天気もはっきりしない、二見港を中心に「みやげ物」を買いながら散策をすることにした。

海上自衛隊の基地・聖ジョージ教会・小笠原ビジターセンター・小笠原水産センター・大神公園など歩いた、以前来たとき道路に信号が1基あったが通る車も数が少なく、父島の信号は文明の象徴だと勝手に思っていたが、今回よく見ると車の台数も増え本来の信号の機能を果たしていた。
                           
このように、島民の数も増え、TV・携帯電話(ドコモのみ)の導入、飛行場の設置(検討中)など、便利さと引き換えに、自然の開発(破壊)が問題になりつつあるように思った。

――――――――――――――――父島U出港――――――――――――――――
出港の25分前に「おがさわる丸」に乗船する、荷物を置き甲板に出ると、港では乗船が続いている。港の脇では、ハワイアン風をアレンジしたような踊りを10人程の女性が踊っている、それを終わると大きな太鼓を3台引き出し、地元の人がたたいて見送りをしてくれた。
やがて乗船が終了すると、見送りの人々が更に港に集まってきた。

父島でたった一泊しか泊まらなかったが、民宿の主人(29歳ぐらい)と奥さん(25歳ぐらい)と子供(4歳)がわざわざ見送りに来てくれた、甲板で手を振ると相手も気がついて、そばに近づいてきて、「また小笠原に遊びに来て下さい」と言われた。午後14時定刻通り船が港から離れ始める。

こちらも手を振ったが、民宿の家族も手を振って送ってくれた、船は少しずつ港から離れていく、小笠原は今回3回目にもかかわらず、手を振って別れを惜しんでいると、目頭が熱くなってくる、東京から26時間揺れながら来たにもかかわらず本当に来てよかったと感激してくる。

船は湾の中を進むと何隻もの小型の船が見送りで付いてきてくれる、その小型の船が港に戻る時船を停めて、小型の船に乗っている人が海に飛び込む、だから停まっている船の後には、人の頭が3つ4つ浮かんでいる。

「小笠原丸」が湾を出て行くときも、まだ一隻小型の船が付いていた、波があって危ないから飛び込まないで引っ返してくれないかと思っていたが、律儀にも船を停めて、飛び込んで見送りをしてくれる、頭が下がる。
         
船は一路東京を目指し進み1時間30分遅れで東京港に入港しこの旅は終わる。

――――――――――――――――お わ り に―――――――――――――――
「小笠原丸」出港の父島の島あげての見送り、
母島の児童の観光客への挨拶、
小笠原は本当に情が深い、
それは、島の名前に父と母がついているからかも知れない。
                   ――――おわり―――−

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