千葉寺と千葉城 18.11.15 天笠 富夫

 


 

千葉寺

 昔し、バスで「坂東三十三観音巡り」をした人がいて、千葉県に寄った時、

千葉市には、千葉(ちば)と呼ばず、千葉寺(せんようじ)と読む寺がある

と言われ、非常に興味があった。


 

暇がとれたので、地図で調べたら、京成線の千葉駅から2つめ先に千葉寺と

いう駅があったので、そこを目指して行った。


 

千葉寺駅を降りて、駅の看板を見ると、読み仮名が「ちばでら」になってい

た、駅より千葉寺まで、歩きながら、千葉寺の場所を聞くと、知らない人が多

く、最後にマラソンの練習をやっていて、信号を待っている人に聞いたら、左

側の方向に寺があると、教えてくれた。


 

  京成線の駅の看板


 


 

千葉寺は、駅名になっていたが、地元でもあまり知られていいないようだ、坂

を少し登っていくと、林があり、千葉寺とかかれていて、観光バスのための駐

車場もあった、地元外では、名が知られているのかもしれない。


 

この寺は、真言宗豊山派の寺で、(空海の流れ)で創建は709年だと言わ

れ、かなり古い、この寺は、千葉氏の居城である亥鼻城(いのはなじょう)

にも近く、地方の豪族千葉氏の祈願所になっていた。


 

  仁王門


 

仁王門より、中に入ると大きな銀杏(いちょう)の木があった、この銀杏の木は、

鎌倉鶴ヶ丘八幡宮にある銀杏の木より大きいと言われている。(高さ30メー

トル・幹周り8メートル) 


 

銀杏の木の下では、白い作務の衣服をまとった檀家の人が5〜6人落ち葉拾

いをしながら掃除をしていた、話をしてみると、天候が異常なせいか、例年で

は、葉が黄色に変わってから落ち葉になるのだが、今年は緑の葉のまま落ち葉

になると言っていた。


 

   銀杏の木(左側)と本堂


 

また、この寺の庭の左手に千葉家の先祖代々の墓があったが詳細は知らない、

ここより本堂に参拝し、気になった千葉県庁の近くにある、千葉城(亥鼻城)

の方向に向かった。


 

千葉城(亥鼻城)

 千葉駅の方向に、30分ほど歩くと、県庁街らしき、所に出た、地図による

と城は、この辺らしいが、見えない、上の方を見て、一生懸命探すとビルの隙

間から天守閣の一部らしい建物がみえてきた、案内板もなく本当に探しづらい。


 

亥鼻城は、昔千葉氏が住からんでいた城で、城というより館があったみたいだ、

その近くに、昭和58年(1983年)に、博物館として、歴史と無関係な、

天守のある、千葉城を建てた。


 

   千葉城


 

城は5階建て、入り口は2階にあり、真ん中にエレベーターがあり、かなり

費用が掛かったように思われる。


 

私が、千葉氏という名前を聞いたのは、1180年に源頼朝が兵を挙げて出て

きた時代のような気がする、その後、千葉氏は存続したらしい、


 

後で調べて見ると、1589年に、後北条につき、小田原合戦で秀吉に敗れ、

千葉氏が滅亡した。


 

城の中に入ると、入場は無料、まず目についたのは、千葉介常胤(ちばつねただ

)の座像があった、更にすすみエレベーターに乗り、天守のある5階にいく、

景色をみると、真下の庭、警察署・県庁・美術館・区役所・モノレールなどが

見え千葉県の中心だ。


 

<千葉介常胤(ちばつねただ)>

 源頼朝が石橋山の戦いに敗れて安房に逃れた際に

 いち早く味方をし、鎌倉幕府の創設に大いに貢献した。


 

  千葉介常胤(千葉家 中興の人) の像


 

展望台(5階)より、階段で、下に降りていく、4階は近現代の千葉、3階は

千葉氏の興亡の歴史が飾られていて、ボランティアの説明が4名いた、見学者

がいないので手持ちぶたさのようなので、声をかけた。


 

「千葉氏は、当地で何年くらい、ここで統冶していたのですか」と質問をした

ところ、言いづらそうに、500年ぐらいだと答えが戻ってきた、滅亡した時

期は分かるが、この場所に土着した時期が不明なためかもしれない。


 

2階に降りると、鎧や槍などの武具飾られていた、出口から、出て千葉都市モ

ノレールに乗り、千葉駅に戻り帰った。


 

千葉都市モノレール


 

千葉寺・千葉寺を訪ねて感じた事、共に立派な建物であるが、歴史は古いが、

政治の中心にならないで、話題も少なく、あまり目立たないのは、なぜだろ

う、宣伝の仕方が悪いのかも知れない!

                      ――――END――――

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