八王子城祉  (2006.01.09)                  天笠 富夫

――――――――――――――――八王子城の由来―――――――――――――――

今回は八王子城散策だ、八王子城の由来を調べてみると、北条氏照によって築城されたと

いう、北条氏照の名前を聞くと北条の縁故者だとわかるが、この北条は鎌倉時代元(中国)

との戦いで有名な執権北条時宗とは関係ないので、歴史上区分して後北条と呼ばれてい

る北条である。

 

この後北条は戦国時代北条早雲を始祖として一介の武士が戦略を駆使して伊豆・小田原を

中心に勢力を持ち、やがて関東一円を支配するようになった。北条氏照はこの後北条家の

三代目当主氏康の息子で、嫡男でないため氏照は武蔵守護代の大石家へ(八王子にある

滝山城)養子として送り込まれ巧妙な手を使って、大石家を乗っ取り滝山城の支配をしてい

 

たが、甲斐の武田信玄に攻められた際、籠城をして辛うじて城を守った。今後滝山城では守

りきれない事を察知し、高尾山の近くの深沢山に八王子城の築城に着手したが、城が完成し

ないうちに、豊臣秀吉の命令により前田利家・上杉景勝(上杉謙信の甥・上杉の後継者)の

 

兵が攻めてきて持ちこたえられず一日で落城した。当時城主北条氏照は四代目当主北条

氏政と共に小田原城で秀吉と戦っており、八王子城を部下の横田監物に任せて不在で

あった。

 

<参考>後北条の系図

 北条早雲→氏綱→氏康→氏政→氏直

   初代   2代  3代  4代  5代

  

――――――――――――――――はじめに――――――――――――――――――

八王子城は、JR高尾駅より北へ約4kmのところにあり、深沢山全体が城になっており国の

史跡に指定されている。以前麓に造形大学があって高尾からバスが出ていたが、造形大

学が引っ越しためバスが廃止になった。そのためJR高尾北口よりバスに乗り、城祉に近

い高尾霊園までバスで行き歩くことにした。

 

―――――――――宗閑寺・八王子城歴史資料館・北条氏照の墓――――――――――

バス停「高尾霊園」で降りると名前の如く、まわりに石屋とその他の霊園が目につく、霊園

ばかりで八王子市は税金が集まるのかなあと余計な事を考えながら、左に曲がり八王子城

に向かう、本当に人も車もほとんど通らない、道を歩いていくと右手にお寺が見える、「宗閑

寺」だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


宗閑寺は北条氏照の菩提寺らしいが、寺は鐘突堂もありきれいに清掃されていた、目的も

なく訪れる人も少ない昔ながらの田舎の寺の感じがする。さらに進むと右手に北条氏照の

墓の案内があったので、墓のほうに立ち寄る事にした、途中個人宅に八王子城歴史資料

館と表示があったので中を見る事にした。

 

入り口で呼び鈴を鳴らしてもなかなか出てこない、あんまり訪れる人もいないのだろう、しば

らくすると中から70歳過ぎの小太りの男が出てきた、そして中を案内してもらった、ともかく

中は暖房もなく寒いうえ、照明も展示品も古代の出土品から幕末の土方歳三までゴチヤ

ゴチャに並べて博物館の体をなしていない、

 

多分自分が気に入ったものを適当に集めたものだろう、個人の趣向家としては良いのであ

ろうが、ともかく何を見せたいのかはっきりしないので説明をしてほしいとの依頼をした、そ

の中で特に印象が残ったのは鎧(カブト)と弓矢だ。

 

鎧は戦国時代の物で矢とか鉄砲の玉を通させないため重さが20KGもあり、鎧を着ての戦

は大変だったと思われる、また弓矢の実物を見せてくれた、終端には羽根がついていなか

ったが先端は鉄製のヤジリで胴は竹製で思っていたより軽いのには感心した。

 

まだ聞きたい事があったが家の中が外よりあまりにも寒いのでホウホウの体で入場料(一人

350円)を払って退館した。北条氏照の墓は坂道を100メートル位行った奥にあり、氏照の

墓のまわりに家来等の墓もあるが氏照は小田原城落城したとき小田原で切腹させられ、

 

10年後にこの場所に葬られた。今この墓の周りを見ても、人家が少なく竹藪で囲まれて、

昔は本当に寂しい場所であったのだろうと推察される。ここより八王子城祉に向かう、城祉

は麓にある御守殿と深沢山の山頂にある本丸に分かれているが御守殿のほうから先に見

ていく事にした。

 

―――――――――――――――――御守殿―――――――――――――――――

御守殿に行く道は、城山川という小川に沿って登って行く道と、大手門広場(場所の掲示は

していない)を通り引橋を渡って行く道があるが、昔は引橋を渡っていく道しかなかったと思

われる。私達は大手門広場から左手の丘をまわって引橋の道に向かう、引橋は木製で復

 

元されていて、昔戦闘の時、御守殿を守るため橋に火をかけて焼き落とす事ができたらしい。

引橋を越え石段を登り冠木門をくぐると御守殿だ、御守殿は本丸のある山の上で生活する

のには不便なため日常生活はこちらでやっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


御守殿を降り城山川沿いの道にでると、今は渇水期で水は流れていないが段差2メートル

前後の「御守殿の滝」があり、戦の時この滝へ女性が自害して飛び込み川の水が真っ赤

になったとの話が残っている。川が血でそまった話は本当としても自害するためにこの段

 

差の小さい滝に飛び込むなんておかしいと疑問を残しながら川に沿ってもどり八王子城本

丸に向かう。

 

――――――――――――――八王子城本丸・他――――――――――――――――

八王子城本丸は、深沢山の頂上近くにあり麓から歩いて約40分かかる、途中曲輪という

人工の防御壁がいたるところにあり、現在でも残っている、また本丸が落とされたときの準

備のため深沢山と別の山に詰の城(大天主)を造っていたと言われている。

 

麓から本丸に向かって歩いて行くと入り口に八王子神社の社(やしろ)があり、さらに登って

いくと中腹に180度の展望で八王子市・橋本市遠く新宿の高層ビル群が見える、頂上近く

なると展望はよくないが八王子神社の本殿がある、その裏山が八王子城本丸だ。ここでの

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


戦いは北条氏が小田原城での籠城が行われているため、この八王子城では小田原への

みせしめのために全員殺りくせよとの命令があったらしく北条方の戦死者が多い、 

八王子城が落ち続いて小田原城が落ち豊臣秀吉の天下統一ができた。圧倒的な戦力差が

 

ありながら戦った北条氏の侍を思うと感慨深いものがある。帰りは同じ道をとおり、高尾霊園

バス停を経由し高尾まで歩き高尾の居酒屋で新年会をやった。

 

―――――――――――――――おわりに―――――――――――――――――――

八王子城祉は10年ぐらい前に来たことがあったが、当時麓に造形大学があり学生がコン

コンと音をたて金槌で石を叩き石像を造っていた、その大学跡地もきれいに片づけられ、

金網で仕切られている。

 

聞いた話によると、当初造形大学は大学の拡張申請を行ったらしいが、国の史跡があるた

め許可がおりないで移転したらしい、深沢山の中腹から見えた市街地もだんだん大きくなっ

ており、自然・史跡の保護と土地の開発のバランスは難しいものです。

だが八王子城祉は、戦国時代からよく残っていたと感心します!

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