散策会の報告(南千住〜北千住編)      天笠 富夫


――――――――――――――――はじめに――――――――――――――――――――

千住は日光街道の最初の宿場町、個人として北千住は行った事はあるが、南千住は行った

事はない。 以前に会社の読書会のメンバーに、松尾芭蕉の「奥の細道」の探訪のために

連れていかれ、回向院と千住大橋のあたりを案内してもらった事があったが、どこの場所

に案内されたのかわからなかった、地図と本で調べながら今回の散策はする。

散策当日朝から雨、天気予報によると午後から曇り夜にまた雨とのこと、天気はあまり期

待できない、ともかく、傘をさして携帯ラジオを聞きながら(ラジオはTBSで都電荒川

線のイベント案内をしていた)集合場所に向かう。


―――――――――――――――南千住(回向院・刑場)――――――――――――――

午後2時待ち合わせの日比谷線の南千住駅に午後2時に着いた、雨はやみ、駅から歩いて

2分ほど位にある小塚原回向院に行く。

 



昔は寂しいところだったのだろうが、今では「つ
くばエクスプレス」の電車も走り、

464号線の道路に接して非常に雑然としている。

小塚原回向院は、江戸時代の刑場で殺された人の供養をするために、寛文7年(1667

年)つくられ、いまでも安政の大獄で刑死した吉田松陰・橋本左内・頼三樹三郎などが

きれいに整理され葬られている。

刑場は地図に載っていたが、目立つような標識が出ていないので行き過ぎて戻って来て

やっと見つけた、そこは電車の線路と歩道橋の間にある延命寺の境内にあった。刑場跡に

延命寺と名前を付けるのには何か意味があるのかも知れない。

境内には比較的大きなお地蔵さまがあり、「首切り地蔵」と呼ばれている。このお地蔵さま

は冷厳な顔をしていて、すこし不気味さを感じた、また脇には小塚原刑場の説明が書かれ

ていた。


  

<小塚原刑場の説明の内容>

江戸の刑場は品川の鈴ヶ森と千住の小塚原の2カ所であった、この小塚原の刑場

は間口108m、奥行き54mの大きさで、明治のはじめに廃止されるまで22

0年間で20万人以上の者が仕置きされた、

仕置きになると遺体は境内で取り捨てられ、土に浅く埋葬されたため臭気で鼻を

つき、野犬などが死体を喰い、この世ながらの修羅場であった言われている。

「首切り地蔵」は刑死者の菩提を弔うために寛保元年(1741)に造立された、

延命寺は回向院の別院であったが昭和57年に回向院より独立した。


―――――――――――――――三ノ輪から円通寺―――――――――――――――

南千住より三ノ輪のへ向かう、徒歩20分浄閑寺に着く、浄閑寺は亡くなった吉原の

遊女達を無縁仏として葬った寺で投げ込み寺とも言われていて、作家永井荷風が良く

訪れたらしい。

  



境内の入り口には、机と椅子が出され、都電荒川線のイベントの一環として、ボランテイ

アの暇そうな70歳くらいの男の案内人がいたので、境内の案内をお願いしました、落語

家の歌笑の碑・吉原遊女総霊塔・永井荷風の碑の案内をしてもらいましたが、また私の悪

い癖で永井荷風はなぜここに出入りしていたのでしょうかと聞いたところ、案内人は良く

わかりませんと案内を打ち切って帰っていってしまいました。(案内は難しいものです

ね!)

三ノ輪より彰義隊の墓のある円通寺に向かう、途中都電三ノ輪駅の案内があったので左に

曲がり三ノ輪駅に行く、駅のまわりは昭和30〜40年代の世界だ「せんべい屋・飲食店

ポスター」など映画「ALWAYS 3丁目の夕日」の中にいるようだ、一見の価値は

ある。





元の道に戻り円通寺に行く、円通寺は観音さまと建物が一体となった近代的な建物である、

その下に彰義隊の墓がある、これは上野の山で官軍に破れた彰義隊々員が賊軍になった

ため遺体が散乱放置されていたのを円通寺で引き取り埋葬したそうです、そばには上野

寛永寺から移された黒門もありました。


   


―――――――――――――――荒川大橋から北千住――――――――――――――――

荒川大橋を渡ると奥の細道の出発を記念し矢立の碑がたっている、松尾芭蕉は46歳弟子

の曽良を伴って、ここから日光・松島・平泉・象潟・金沢・福井・大垣など2400km

150日歩いた、その当時では高齢なのに何が起きるかわからない場所に旅をする大変さ

は身にしみて感じるものがある。




ここより北千住に向かう、北千住の商店街に入ると、目医者とした現役で使われている洋

館がある、よくこんな立派な建物が残っているのには感心した、本陣に関しては北千住の

駅の近くの裏通りに本陣跡の説明が書かれていたが、残念ながら本陣跡としてなにも見つ

けることができなかった。


  



―――――――――――――――おわりに―――――――――――――――――――――

今回の散策コースは見所が沢山あった。近くにあったが寄っていない場所として泪橋・永

久寺・やっちゃ場・ふるさと文化館・金蔵寺がある。また文章が長くなるため触れていな

い場所として素サ雄神社・北千住駅前のにぎわいなどがあったが割愛しました。

このコースは江戸時代では、表舞台からとり残された影の部分、回向院・刑場・浄閑寺・

円通寺などがあるが、ともかく、人の仕置きをしたり、その遺体を放りだしたり、引き

取って埋葬したりして、当時でもこの場所は普通の人は近づかない場所だと思います。

特くに気味の悪さで印象に残ったのは「首切り地蔵」です。何万人もの人が殺されるのを

ずっと見つづけていたのですから。

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