白神山地の旅 2015年10月 石田晴康
ぜひ世界遺産の白神山地を見たいとの思いが募り、ようやく実現した。
紅葉が見ごろの10月上旬にした。ところが、行ってみて唖然茫然。 千メートルを超える山頂から麓まで、紅葉はまだまだで緑が濃い。 また、白神の名所である暗門の滝、クロクマの滝、マザーツリーを 見れないとわかった。途中の道路が土砂崩れで通行止めとのこと。林道は 砂利道だそうで、よほど人が通らない道なのだろう。レンタ―カー会社の 担当者にその道を聞いたら、あそこは、バンパーが外れるほどの ひどい道だといわれた。
ホテル内で募集していた白神の森ガイドツアーに参加した。 白神山地を長年登山している人が案内してくれた。 ブナの森の世界遺産と言っても、実際に行ってみると、ブナだけでなく、 ミズナラ、栃ノ木、ホウなど太く、大きく成長する多様な木々で構成されていた。 樹齢200年の木は幹の直径が2mもある。 その中でもブナが抜群の保水力を持っているので、代表的な木とされる。 幹径が50cmのブナで幹や葉、その下の腐葉土全体で五百リットルの水を 貯えるそうだ。このブナの森が青森県、秋田県にまたがり広く存在する。
なぜブナの森がこの地域だけ広大な面積を長年維持されてきたのか疑問に 感じていたが、ガイドの話で納得した。 ブナの森から流れる水がふもとの田畑を潤すことを地元の人達が長年経験して 知っていた。また米が不作の時、森の木の実を食糧にしてきた。 それでブナの森を大事にしてきた。 津軽藩でも保護に力を入れてきた。
東京でも奥多摩湖の上流で大正時代に森林を伐採して、土砂崩れや渇水を 経験した。それで東京の水源を確保するために奥多摩湖上流の広大な森林を 都が保護してきた。
昔の人は治山のために、100年計画で森林を保護してきた。その恩恵を 我々が今享受している。
最近日本では米国金融資本に操られ、短期に儲ける事ばかり持てはやされている。 しかし米国金融資本が全世界の稼ぎの7割を奪って、実態経済をおかしくした。 数年前、米国金融業者が西武鉄道の株を売りぬいて儲けようと、西武鉄道に 採算の悪い西武秩父線、国分寺線、多摩湖線、多摩川線を売却しろと要求した。 それに怒った住民が反対して撤回した経緯があった。
森林の話にもどるが、A政権が地域の農業委員会を農民から、農業を知らない 地域の首長に変えた。また農地を外国人でも持てる制度にしてしまった。 日本人が長年経験した治水等の知恵を外国人が無視して農地を転用したら、 食糧の自給自足がさらにできなくなる。 またTPPで、日本の農家が打撃を受ける。 食糧の安全保障が今でも低いのに、より厳しくなる。十年ほど前、世界で 小麦の凶作があった時、輸出国のオーストラリアでは、輸出制限した。 今でも日本の小麦、大豆、トウモロコシの9割を輸入に頼っている。 いつも手に入ると思っていたら、いつか大変なしっぺ返しをされるだろう。 国土を守るとは食糧の自給自足ができることだ。
次に、白神山地の日本海側の名所である十二湖に行った。十二湖の宣伝では 青池の写真のみが掲載されているが、他の池も青池に負けず、青緑の澄んだ水を たたえていた。上高地の明神池と比べれば、はるかに美しい。 池は深いブナの森の中に点在していて、夏に散策すると上高地を散策するような 爽快感があるだろう。
旅行業者では一般の観光コースの扱いだが、むしろ、ハイキングコースとして 宣伝した方が、集客できるような気がする。 2泊3日で周るコースを開拓して、それぞれにセールスポイントを作ればいい。 各地にできたパワースポットにあやかって、パワースポットもどきを作って 観光雑誌の話題を作ればいい。あるいは、ここにしかない花を大々的に宣伝して 女性ハイカーを集める。東京の御岳山でレンゲショウマという高山植物が 咲くが、その時は、ハイカーが大勢来る。 もう一つ、温泉がほしい。今は、どこでも二千m掘れば、温泉が出るのだから、 やる気の問題だ。青森県は観光で儲ける知恵がない。
コンビニが無い。 弘前城から西に向かい日本海沿いに十二湖まで90km あるが、その間コンビニが一軒しかなかった。 東京だったら、「犬も歩けばコンビニにあたる」だが。それだけ過疎なのか。 でも、道路は割と多く車が往来しているので、コンビニを使わない生活習慣に 馴染んでいるのか。
青森空港からレンタカーで津軽平野に入ると、はるか彼方まで一面の畑で、 稲の黄金色が輝いていた。 雄大さに感動した。 関東平野では、畑と住宅が モザイクに広がるので、景観が失われている。
白神山地の近くに太宰治の生家があると知り、行ってみた。 五所河原市から北の竜飛岬へ向かって行く途中にある。
外観は大きいが、屋根が瓦ぶきではないのと木の板壁が風化していて高級感が 薄い。後でなぜ瓦屋根ではないのかと思い、その帰りにまわりの住宅を 見ていると、津軽平野では瓦屋根の家は一軒もなかった。これは雪国なので 雪下ろしを容易にする知恵なのかもしれない。
太宰治の親は津軽一の大富豪で、従って屋敷の建家面積が900平米と広い。 木造二階建てで、広さは上野の旧岩崎邸の四倍はありそう。 屋敷は奥にずうっと長い。昔は奥に土蔵の米倉がいくつも並んでいたそうだ。 使用人含めて30人が生活していたのだから、これだけ広さがいるのだろう。
明治42年に建造したそうだが、ガラス戸の当時最新の建材も使っている。 総ヒバ作りの家と自慢し、欄間やふすま、天井に飾りを施しているが、 質感が今一。私の大富豪のイメージでは全て国宝レベルの貴重なものかと 思ったが期待過剰であった。でも、生活に使う家だから、こうなるのかも。 しかし、京都から取り寄せた仏壇はきんきらきんで豪華であった。
二間にしか囲炉裏が無かった。座敷が広く、ガラス戸では、冬は寒く、 身を寄せ合っていたのではないか。綿入れのどてらを着ていたのだろうか。 当時の人は寒さに強いとはとても思えないのだが。
作家、太宰治はマスコミで話題なるので、気にはなっていた。 これを機会に読んでみた。 本の内容の背景には、彼の育った人生が大きく影響している。
彼の親は金融業を営み一代で巨額の富を得たので、津軽一の資産家に なった。その財力で青森県知事や貴族院議員を歴任してきた。 それで、両親はほとんど家におらず、東京に住んでいた。
太宰治は11人兄弟の六男として生まれた。叔母と乳母に育てられてきた。 このことは、ものや食べ物に不自由はしなかったが、他方、家族関係では、 家族間の格差を感じていた。 叔母がなくなってから、心理的に孤立したと 思われる。 外目には、資産家のおぼっちゃまに見られるが、家庭では、 抑圧された思いが続いていたようだ。 ここに屈折した人生観ができてきた と思う。
学生の頃、プロレタリアートの影響も受け、小作人を搾取して、親が 大富豪になれたと苦に思う時期もあった。
大学の頃から文学に傾倒し、作家の道を進む。彼は多くの作品を書いたが、 その中で、代表的な作品、斜陽と人間失格を読んだ。これらは、彼の人生の 経験を私小説のように書いている。資産家から没落していく様が描かれている。 何か、気の滅入る小説だった。 しかし、多くの人達を魅了するのはなぜか。 人生のいろいろな矛盾を真摯に受け止め妥協できず悩む姿勢が共感を 呼ぶのだろう。読者に生きるとはなにかを問い掛けているように思う。 四度も心中し、前の三度は叶わなかった。 友人に精神病院に入れられ、 俺は人間失格なのだと苦闘した。 最後に玉川上水に入水自殺を遂げた。命がけの解決方法であった。
この書から斜陽の小説名がついた。 太宰治が最後に住んでいたところは三鷹のアパートであった。 最近漫才師の又吉氏が小説「花火」を書き、芥川賞を受賞したことが 話題になった。その又吉氏が太宰治の住んでいたアパートに住んでいた。 又吉氏は生半可に漫才師と作家をやっているのではなく、文学に 強い思い入れがあることを感じる。
太宰治の生家の隣に津軽三味線会館がある。 午後一時から津軽三味線の 生演奏があるというので、聞くことにした。地元の人が数曲弾いてくれた。 以前、練馬の文化センターで吉田兄弟の津軽三味線を聞きに行ったことがあった。 三味線一棹で千人が入る大ホールの二階席でも十分聞ける大きな音量で オーケストラに負けない迫力があった。 今回真近で聞けたのも嬉しい。 ばちだけでなく、指で弦をはじくことで、 音にひろがりを与えている。 ショパンのピアノ即興曲では、ピアノの鉄の棒を 叩くのに玉が転がるような音が出るが、津軽三味線でも、はじくだけで玉が 転がるような音が出る。 これが素晴らしい。
白神山地の旅のつもりだったが、太宰治の生家や津軽三味線も見ごたえあった。 題名は、津軽の旅でもよかった。
完
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