東日本大震災 津波のつめ跡

                                2012年9月25日  石田 晴康

 

■ 東日本大震災の報道を詳しく見たが、報道が一面的で偏っているように思えた。 現地の人の本音を

  聞きたい。 それなら、自分で現地に行って肌で感じるしかない。

 

 現地に行くいい方法が見当たらず、それで被災地見学ツアーに参加した。

 場所は岩手県宮古市の北方の陸中海岸国立公園沿いの海岸である。津波の被害が甚大な所だ。

 

 ■ 田野畑村 島越地区

 

      写真1 

女性が立っているタイル状床は、津波の前は女性が持っている写真の

駅舎だった。 

それが全て流失してしまって、床のみ残った。(写真1)

 

 

 

      写真2

 駅は北リアス線の島越駅だった。 後ろにある高架の線路が

 崩壊し、今はわずか橋脚2ケ所が残るのみ。(写真2)

 

 

      写真3

 津波直後の北リアス線の崩壊状況。(写真3)

 

        写真4

案内者が持つ写真に写っているのは、津波前のここの集落。

(写真4)

150戸くらいあった。 津波であっという間に全て流された。

 

 

       写真5

 写真5のように家屋がなくなった。

 今は、瓦礫を撤去して、更地にようになっている。 

津波のせいで流失したと聞かなければ、単なる更地があるとの

印象だ。

 

         写真6

奥の山へ坂を登っている人達が見える。 

森林の中央下。 そこまで津波が襲った。 

手前の所から20m高い場所だ。(写真6) 

 

駅舎跡に立って説明している女性(津波の語り部)は

ここに勤めていた。(写真1)   当時、駅にいた。

 

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 数週間前にも地震があって、津波警報が出たがその時は10cm程度の津波でたいしたことはない

 印象だった。

 そのあと、今回の津波のときは、地震があったが、どこも家屋は倒壊しなかった。

 それで前回並みの意識があった。  しかし、津波がくるので避難するよう村内放送があった。

 

      写真7

 まわりに人がいなくなり不安になってきた。 駅から海を眺めたところ、

いつもと様子が違うと感じて、急いで車で高台に避難した。(写真7)

避難して5分もしないうちに津波が襲った。 危機一髪だった。

 

 

 

 高台にある住宅は津波の被害を免れた。 ここまで避難した。杉林が枯れているが津波がかぶった

 塩害による。 

 左手のトンネルは北リアス線が通っていたが、津波で崩壊した。

 

 しかし、あっと言う間に津波が引いて、瓦礫の山となった。さっきまであった家はあとかたもなかった。

また、津波が来るかもしれないと思い、後ろの山を登り、半日がかりで、奥の部落にたどり着いた。

 

海も津波のあとは、瓦礫が漂っていたが、今は何もない。

 材木や発泡スチロール等は見当たらない。 震災前と同じに見える。

 一年後、昆布のような海草類が増えてきたそうだ。

 

 ここは、昔から、繰り返し津波の被害を受けてきた。つまり、歴史は繰り返すことが史実で明らかになっ

 ている。

 

田野畑村では

*貞観地震   貞観11年5月26日

   大きな被害

 

*慶長三陸地震   1611年12月2日

   大きな被害

 

*明治三陸大津波   1896年6月15日

  マグニチュード 8.2 〜 8.5

  死者 128人 流失家屋 32戸

  地震後30分で津波

  津波が海抜25mまで上がった。

 

*昭和三陸大津波   1933年3月3日

  マグニチュード 8.1

  死者 83人 流失家屋 131戸

  地震後30分で津波

 

*チリ地震津波   1960年5月23日

  震源地   南米 チリ沖太平洋

  マグニチュード 9.5

  死者 なし

  地震後22時間で津波

 

*東北地方太平洋沖地震   2011年3月11日

  マグニチュード 9.0

  死者・行方不明者 40人

 

 作家の吉村昭氏は、このことに注目して、ノンフィクションの「三陸海岸大津波」を1970年に書き、

   また津波が来ると警告してきた。 

 

 ■ 田野畑村 羅賀地区

 

       写真11

島越地区の隣にある。  ここも甚大な被害を受けた。

ここに5階建てのホテルがある。 このホテルの屋上まで津波が押し

寄せてきた。(写真11)

説明者が持っている写真でその様子が分かる。

 

 

     写真12

ホテルの階段の脇に3階までベニヤ板が貼ってあるのが見える。

 津波はこの高さまであった。(写真12)

 

      写真13

説明者が持っている写真で津波後の瓦礫が散乱した状況が見える

(写真13)。奥にホテルが見える。

このホテルに当時宿泊客がいた。 ホテルは定期的に避難訓練をしてい

たのですぐに、宿泊客をバスで避難させ、従業員も避難させたので、

犠牲者は出なかった。

日頃の訓練による意識の持ち方が生死を分けると感じた。

 

■  田老町

      写真21

ここも大きな被害を被った。 堤防が決壊している。(写真21) 

 つまり、津波が堤防内に押し寄せた。 ここは、第一堤防である。

 この海側に第二堤防、第三堤防で三重に守られているはずだった。

 地元では、第二堤防、第三堤防がかえって津波の勢いを増し、

逆に第一堤防を決壊したと言っている。

 

 インドネシアでも大津波に遭い、甚大な被害を受けたことは記憶にあたらしい。この時、海岸の

    マングローブ林が津波の被害を緩和することがわかった。

 

 日本では、松林を津波防災用にしたが、全く効果がないことがわかった。

 一方、現地に自生している多様な植物による森が津波を緩和するという、日本の植物生態学の第一人者による

 実践の成果がある。これを国の官僚がいろいろ足をひっぱって、やらせないため頓挫している。

 

 官僚は去年と同じことを継続することのみしかできない石頭のため時代の進歩を受け入れず、

    無駄に税金を浪費している。  

    三重の堤防では、防げなかったので、今度は6重の堤防を作ろうと言い出すだろう。

 

     写真22

       写真23

      写真24

 ここではまだ瓦礫を撤去しきれず、撤去作業が続いている。

 タイヤとか家電品とかを分別しているようだ。(写真22,23,24)

 

 ■  宮古市

 

ここら辺では比較的大きな街で、漁業が盛んだ。 市内の真ん中に河が流れていて、その周りに住宅地がある。 

洪水に備えて、河に高さ3mの堤防がある。(写真33)

 

 津波がこの堤防を越え、被害をもたらした。堤防があったため、壊滅状態ではなく点在して住宅が

   残っている。 使えるかは定かではない。(写真31、32)

       写真33

      写真31

       写真32

 

■  浄土が浜

      写真41

 浄土が浜は宮古市からすぐにある観光地である。

ここに、観光船が3隻あったのだが、内2隻が津波の被害を受け使えなくなった。

残った1隻は、津波の報を聞いて、すぐ沖に避難したため損害はなかった。

津波後すぐには港に戻れず、2日間洋上に停泊していた。

その間、食料がなく、ウミネコ(鳥)用のえさで飢えをしのいでいた。

 ■  感想

1     ツアーで行った時には、大震災後すでに一年を過ぎていた。

  津波当時は、動物の死体や魚の腐った臭いで、息が詰まるほどだと地元の人は言っていた。

 

 ツアーでは津波の痕跡がわずかにしか見当たらないので、もっと早く行っておけばよかったと残念に思った。

 打ち上げ花火をテレビでみるような感じで、現実味が薄かった。

 

2     自然は、以前と変らない(壊れない)。しかし、人工物は壊れると地元の人が言っていたが、

       鋭い指摘に思えた。

 

3     田野畑村から北隣に普代漁港があるが、ここは津波の被害を受けていない。

  歴史的に被害を受けるところは決まっているように思える。

  地形学的に津波を受けやすいところと受けにくいところがあるようだ。

  海底の地形を調べれば、より効果的な防災対策ができるだろう。

 

4     今回の津波の前に前兆現象はなかったそうだ。

  いわしの大群が来た。 マグロの大群が来た。 

      発光現象があるとか、雷鳴のような音が聞こえる等が良く言われている。

  今回そのようなことはなかったそうだ。

 

  数週間前の地震、津波では被害はなかったので、油断があった。

  おおかみ少年にならないように、避難を判断するのは難しそうだ。

  津波来襲の情報をいかに早く、全員に知らせ、避難させるかで、生死が分かれると感じた。

  地震により違うが、10分〜30分程度の避難の時間があるので、その間如何にして高台に逃げるかだ。

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